3・11 東日本大震災・東電福島第一原発事故から9年経った。あの時の恐怖と衝撃、被災地の人びとの悲しみと苦痛、そして私たちの社会が学んだ痛恨の教訓を記憶しつづけるため、2014年から毎年『3・11写真展』を開催してきた。今回は、フォトジャーナリストの山本宗補さんと福島の詩人・関久雄さんの、詩と写真のコラボレーション作品『なじょすべ 詩と写真でつづる3・11』展を開催している。
開催初日の昨日、山本宗補さんが会場に駆け付けた。
(開催の詳細はチラシ参照 ダウンロード - e38381e383a9e382b72.pdf)
7/6 マーストリヒト(オランダ)Maastricht
ケルンからベルギーへ帰る途中、オランダ南部のマーストリヒトへ寄った。娘のリクエストで、欧米で大人気のアンドレ・リューとヨハンシュトラウス・オーケストラ André Rieu And His Johnn Strauss Orchestra のコンサートを聴くためだ。
7/5 ケルンKöln
ドイツ旅行の最終日には、ケルン大聖堂Dom St.Peter und Mariaを訪ねた。
まず、その大きさに圧倒された。大聖堂前の広場に集う人びとが、豆粒のように小さく見えた。ファサードを飾る数々の彫刻も精巧を極め、美しい。
7/3,4 ハーメルンHameln
ハーメルンは、ネズミ(Ratten)の街だった。街中いたるところに、ネズミがいた。舗道の敷石にも、鉄橋のうえにも、居酒屋の名前や看板にもネズミがいた。そして、人形店では、色とりどりのネズミを売っていた。ついには商店街で、魔女がネズミの血やネズミの毒入りジュースを売っていた。
7/3 クヴェードリンブルクQuedlinburg
ライプツィッヒからクヴェードリンブルクへ行く途中、二つのビックリがあった。その一つは、高速道路へ入る前の一般道を走っていた時、なんと制限速度が100㎞/hと表示されていた。片側1車線の対面通行の区間である。高速道路が有料でないため、高速道と一般道の区別が、日本ほど明確ではないのだが、それにしてもこのスピードには驚いた。また、高速道路では130㎞/hで走る娘の車を、一瞬のうちに抜き去っていく猛スピードの車が少なくなかった。アウトバーンでは180㎞/hが普通だとは事前に聴いていたが、さすがに180㎞/hは速い。
もうひとつのビックリは、ドイツの高速道路沿線での風力発電のための風車の数の多さである。今回の旅行初日の、オランダ・ドイツ国境沿いを北上するコースでも、広大な麦畑に多くの風車が建っていたのだが、ベルリン-ライプツィッヒ間とライプツィッヒ-クヴェードリンブルク間の風車の数はそれを凌駕し、驚くほど多くの風車が林立していた。ドイツ社会の脱原発・再生エネルギーへの転換の意欲の強さを感じた。
7/2 ライプツィッヒ Leipzig
ライプツィッヒは、ヨハン・セバスチァン・バッハの街だった。到着後すぐに訪ねたトーマス教会は、まさにバッハゆかりの場所だった。バッハは、1723年から1750年の死を迎えるまで、市とこの教会の音楽監督を務めた。代表作のひとつ『マタイ受難曲』は1727年、この教会で初演された。教会の前庭には、バッハのブロンズ像が建ち、教会内部のステンドグラスには、バッハの肖像が描かれていた。そのステンドグラスには、バッハの他、メンデルスゾーンやマルティン・ルターの肖像も描かれていた。メンデルスゾーンは、自らの音楽的業績とともに、忘れられようとしていたバッハの音楽をよみがえらせた功績が、人びとに賞賛されたのだ。
7/1 ベルリン 再びBerlin
ベルリンの2日目、まずグルーネヴァルト駅「17番線」にいった。1941年秋から1945年春までに、ベルリンの5万人以上のユダヤ人が、この17番線から各地の絶滅収容所へ送られた。輸送には家畜用などの貨物列車が使われ、狭い車両に100人以上の人間が押し込まれた。目的地に到着するまでは、水も食料も与えられず、トイレすらままならなかった。幼児や年寄り、病弱者のなかから衰弱のうえ死亡するものもいた。ドイツ映画『アウシュヴィッツ行最終列車 ヒトラー第3帝国ホロコースト』(2006年製作)は、貨物列車のなかの人びとが喘ぎ苦しむ様子を、リアルに伝えていた。
グルーネヴァルト駅の正面右側のゆるい坂を上っていくと通路の左側に、「17番線」から強制連行されたユダヤ人が歩いているところをイメージしたという石壁のモニュメントがあった。その隣に、「人間の生命や尊厳をないがしろにするいかなることにも、勇敢に躊躇なく立ち向かわなければならない」と警告し、移送のうえ殺害されたユダヤ人を追悼する石碑が建っていた。
6/30 ベルリン Berlin
月を跨いで2日間、ベルリンの街を歩く予定だ。ホロコーストの記憶の場を訪ねること、そしてルネサンス絵画とケーテ・コルヴィッツの版画を観ることが目的である。
ベルリンの代表的な街路であるウンター・デン・リンデンの車道脇に車を止め、ベルリン散策をはじめた。幸い、日曜日は無料での駐車可だった。初めに向かったのが、ノイエ・ヴァッヘ(新衛兵所)。19世紀初め、衛兵所として建設されたノイエ・ヴァッヘは、ドイツ再統一後の1993年、ドイツ連邦政府によって戦没者追悼施設として「国民追悼の日」(11月第3日曜日)の式典会場となった。内部はがらんどうとした広い空間が広がり、中央の採光取りのための円窓の真下に、一体の彫刻があった。版画家・彫刻家のケーテ・コルヴィッツの作品『ピエタ』(1937)の拡大レプリカである。死んだ息子を抱える母親像であるが、第一次世界大戦で戦死したケーテの次男ピーターがモデルである。
6/29 ポツダム Potsdam
前日、ポツダムのクランプニッツ湖Krampnitz see近くのアパートに到着、ここで4泊し、ポツダムとベルリン見学の拠点とすることにした。今回の旅行の宿泊についてはすべて、同行する娘が宿泊サイトbooking.comで予約したもの。このアパートは、ネット予約しすでにクレジット決済を終えていた。到着すると娘の名前を書いた紙が部屋の入口に貼ってあり、キーがカギ穴に差し込んであった。勝手に入って部屋を利用してくれ、ということだ。4泊5日の間、家主からは一切の干渉や口掛けはなかった。簡単な食事を作ることもできる。これが「民泊」というものなのか。といっても、家主への到着と出発の挨拶は勿論、やったが。