一昨年暮れ、愛猫のタマがくわえてきたカワセミ(翡翠)を手にとったのを切っ掛けに、近くの里山を散策するときは何時もコンパクトカメラを持参し、野鳥たちの姿を撮って来ました。今年1年の成果をファイルに整理したので、アップします。身の回りに、これほどに多種類の野鳥がいたことに、驚きと感動を覚えます。今回アップしたもの以外に、観察しながら写真撮影には至らなかったものは、アカゲラ、アオゲラ、カケス、ウグイス、ホトトギス、アオサギなど。新2018年の宿題です。「bird.compressed.pdf」をダウンロード
高崎市の図書館で、新刊コーナーに並んでいた西川祐子著『古都の占領 生活史からみる京都
1945-1952』(平凡社17/8/25刊)を偶然見掛け、読んでみることにしました。京都で生まれ育った私にとって、私の0歳から6歳までの京都の歴史は、幼児期の記憶の断片を幾分かでも蘇らせてくれるのではないか、また、私の個人的体験を歴史のなかに置いて思い返せるのではないか、などと淡い期待をもちました。
本書は、1937年東京で生まれ京都で育った文学・女性史専攻の著者が、GHQや京都府の公文書、市民の日記やインタビュー、そして著者自らの個人的体験等から、膨大な記録と記憶の断片をジグゾーパズルの切片を埋めていくようにして、占領期の京都を描いた歴史書です。
福島原発事故から6年半経ちました。福島の人びとは依然として、避難生活の苦悩と放射能の不安のなかにあり、汚染水問題はいまだ解決せず、農業や水産業も元に戻ることはありません。毎週月曜日の朝日新聞歌壇には、多くの歌人のみなさんが、福島や避難先からそして全国から、さまざまな「フクシマ」を詠んだ短歌を投稿しています。こうした声に耳を傾け、福島の今を記憶にとどめつづけたいと思います。
19年前、アウシュヴィッツを訪ねるにあたりテキストとしたのが、フランクルの『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』でした。絶望的な強制収容所のなかで、精神的な自由を維持しつづけた英雄的な人びとの話に、こころ打たれたことを記憶しています。今回、この本を読み返してみて、ただ一か所、それもたったの一行に、オレンジ色のマーカーが付けられているのを発見しました。
「私はここにいる―ここに―いる。私はいるのだ。永遠のいのちだ……。」
この春以来、朴裕河著『引揚げ文学論序説』(人文書院2016刊)に啓発され、彼女のいう「引揚げ文学」を読んできました。後藤明生、小林勝、なかにし礼、そして木山捷平の諸作品です。4人の作家たちはいずれも戦後の引揚げ者ですが、後藤、小林、なかにしの三人が、植民地であった朝鮮や「満州」で生まれ育ったのに対し、木山捷平は戦争末期、40歳で単身「満州」に渡った、という違いがあります。しかし、何れの作品も、著者たちの体験を色濃く残した自伝的なものでした。今回読んだ安部公房著『けものたちは故郷をめざす』(1957/4刊)は、私小説とは違ったフィクション性の強い作品ですが、著者の幼少年期の「満州」での体験に裏打ちされ、敗戦後の元・植民者が難民化する中で、故郷として思いつづけた日本そのものを喪失する物語です。
木山捷平の『大陸の細道』は、著者の「満洲」渡航から敗戦までの体験を、主人公・木川正介に託して描いた私小説でしたが、敗戦後の難民生活については、『満洲五馬路』(68/10刊)や『苦いお茶』(63/5刊)に描かれています。このふたつの作品から、木山捷平の『満洲』における難民体験を、追想します。これらの作品でも、主人公はやはり、木川正介。