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2006年12月 3日 (日)

日本史の常識が覆る その2

 網野善彦さんの『日本の歴史をよみなおす(全)』について、もう一箇所書き留めておきます。
 「日本社会は、すくなくとも江戸時代までは、農民が圧倒的多数をしめる農業社会だった」ことは、広く知れ渡った常識であり、私の中の常識でもあります。人口構成に、百姓が8割近くも占める社会は、農業社会以外の何物でもない。そう思っていました。ところが、網野さんは、この常識は、間違いだと断定されます。何故か。「百姓は農民ではない」からだという。もう少し正確に言いますと「百姓ということばは、本来、たくさんの姓を持った一般の人民という意味以上でも以下でまなく、この言葉自体には、農民のという意味」はまったく含まれていない。そして百姓の実態は、山口県の上関の事例では、「地方の百姓36軒のうち、農人は19軒にすぎず、商人10軒、廻船問屋が5軒、鍛冶屋、漁民が各々1軒」ありました。そして、これは例外ではなく、日本列島の各地に見られるということです。つまり、「百姓は決して農民と同義ではなく、たくさんの非農業民―農業以外の生業に主としてたずさわる人びとを含んでいる」というわけです。
 

 奥能登に時国家という豪農がありました。従来の学説では、江戸時代初期には、200人ぐらいの下人をかかえて何10町歩という大きな田畑を経営していた家父長的な大農奴主経営、と見られていました。ところが当家に保存されていた膨大な文書類を研究するにつれ、こうした常識がまったく間違っていたことが、判明します。
 まず、江戸時代初期以前から、時国家は大きな船を2,3艘持って、松前から佐渡、敦賀、さらに琵琶湖を超えて大津、京、大坂とも取引をやっていたことが、わかりました。
そして、製塩や製炭をやり、塩や炭が商品となっていました。鉱山経営に、触手を伸ばしてもいます。これらの商売と関連しつつ、倉庫業や金融業のようなこともやっている。つまり、時国家は、企業家的精神を持った多角的企業家といってよい、というわけです。
 時国家の下人の中に、わずかな田地を借りて耕している友之助というひとがいました。一方、北前船の船頭に同名のひとが現れます。そして、この2人の友之助が同一人物と確認されます。「蔵に伝わった文書だけ見ていると、友之助は時国家の貧しい下人、小作人と見えるのですが、襖下張り文書の世界の友之助は、千両の取引きを自分の判断でやることのできる北前船の大船頭になるわけです。・・・・・これまで歴史家は、襖下張り文書まで・・・・・調べることはほとんどやってきませんでした。・・・・・海民や山民の世界、廻船人・商人の世界は、多くはこうした廃棄された文書から知りうるわけですから、まさしくこれは切り落とされ破棄された世界であり、この世界をもう一度世に出さなくては、日本社会像が非常にゆがんだものになってしまうことは確実です。」

 たいへん刺激的で挑発的な記述が、絶えることなく続きます。この本を読んだ後には、
最早、従来の常識を自分に許すことはできません。そのことを、さらに確信していくために、網野さんの著作を、しばらく読んでいくこととします。『ハーメルン』の阿部謹也さんと並行して、つまり、西欧と日本の中世史を、並行的に学びたく思います。 

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