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2007年1月27日 (土)

それでもボクはやってない

 周防正行監督『それでもボクはやってない』を観ました。
 冒頭、スクリーン一杯に「十人の真犯人を逃すとも、一人の無辜を罰するなかれ」との格言が掲げられ、冤罪事件の裁判物語であることが、示唆されます。満員電車の中の痴漢の犯人に間違えられた一人の青年の裁判での戦いが、丁寧にしかもわかり易く描かれています。東京高裁で痴漢事件の逆転無罪判決を勝ち取った男性の、実話にヒントを得た映画です。
 国家権力への恐怖は、取り調べる刑事や調書をとる副検事の暴力性よりも、有罪を言い渡した裁判官の判決論理の中に、強烈に感じました。被告人に有利と思われる証拠に対しては、揚げ足取りともいえる論理で、その価値を落とし込め、不利と思われる証拠に対しては、積極的に評価し採用していきます。まさに、「疑わしきは罰する」のです。このようにして、刑事事件で起訴された場合の有罪率は99.9%となる、というわけです。
 周防作品は、『シコふんじゃった』も『Shall we ダンス?』もともに大変おもしろく、映画の楽しさを十二分に味合わせてくれましたが、『それでもボクはやってない』は、上映中の2時間半、息苦しくなるような緊張感をともないつつ、終始、画面に釘付けにされました。

 

2007年1月26日 (金)

小説『千々にくだけて』

  「母語の英語は、十年以上、一行も書いたことはない」というリービ英雄さんは、20年来日本に定住している、アメリカ生まれの現代日本文学作家です。この作家については、万葉集を英訳したアメリカ人、ということぐらいしか知りませんでしたが、2年前、岩波の『世界』(05.2号)に掲載された「9.11ノート―あの日、ぼくは、ニューヨークに行くために、飛行機に乗った」を読み、強く惹きつけられたことを思い出します。著者の、このときの経験が、小説『千々にくだけて』に結晶します。
 主人公は、2001年の初秋、母国アメリカへの旅の途中、同時多発テロの発生で、経由地カナダに足留めされました。ホテルでテレビの映像を見、ニューヨークとワシントンに住む家族と電話する中で、徐々に事件の実像が明らかとなり、千々に砕け散った恐怖のなかに、母国アメリカとそこに住む人びとへの、深い悲しみを味わいます。
 9.11後を描いた作品は、マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画『華氏911』がありますが、粗野で間抜けなブッシュを、騒々しく徹底的にこき下ろしたこの映画は、気分が悪くて二度と観たくはありませんが(勿論この主人公を見たくないという意味)、リービ英雄さんの描く「9.11後」は、読後、静かに目を閉じて考え込むことを、求めてきます。

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2007年1月21日 (日)

捨てられた鶏たち

  昨日の朝、犬2頭を連れて山に散歩に出掛けたとき、山中の小さな道に赤毛の鶏が1羽、両足を上にあげひっくり返った状態で、死んでいました。そこから数メートル離れた竹藪では、真竹の3分1位の高さの枝に、白色の鶏が止まり、悲しげに首を振っていました。道には、血が筋状に流れています。妻の話では、おとといの夕方、彼女が犬の散歩に行ったとき、10羽前後の鶏たちが、道の片側に肩を寄せ合うように固まっていた、とのこと。この2羽以外は、どこへ行ったのでしょうか。
 さて、彼らは逃亡者か捨て子か。逃亡者の場合は、飼い主がわかれば一件落着ですが、捨て子の場合は、何故捨てたのかが気がかりです。宮崎の鳥インフルエンザのニュースが、いまだ進行中なのです。そこで、町役場に電話しました。すると、「大量に死んだのならともかく、1羽死んだくらいなら、獣にでもやられたんでしょう」ということで終わり。そうじゃなくって捨てられたとしたら、と言葉をつなぐ暇もなく、電話を切られてしまいました。
 自宅の周りの里山には、よく動物たちが捨てられます。もう10年以上も前になりますが、娘が軍鶏(しゃも)を連れて帰ってきたことがあります。夜の暗闇のなか、近くの小さな橋の欄干に、ひとり寂しげに止まっていたとのこと。変わった捨て子でしたが、わが家で飼うことになりました。闘争心の強い鶏で、片羽を大きく広げて、しゅっしゅ、しゅっしゅと執拗に攻撃してきました。でも、抱いてやると大人しくなり、目を細めてウットリとしていたものです。結構かわいい奴でした。まだ鳥インフルエンザの話もなく、のんきな時代でした。他にペットの捨て子は、犬・猫が常連です。そのうち、猫8匹と犬1匹が、家族の仲間入りをしました。
 しかし今回は、心を鬼にして、見捨てることにしました。竹の枝に止まった白鶏の姿が、目から消えません。

 

2007年1月20日 (土)

紅梅の開花

 これは、里山ではなく、東京の話題です。
 荻窪の観泉寺の紅梅が咲きました。昨年は、この時期に咲いていたかどうか。群馬の山里にあるわが家の紅梅は、毎年3月の中旬頃に咲きますから、東京の紅梅は、たいへん早い開花です。テレビのお天気番組で、気象庁の庭園の紅梅が、18日の日に開花したということですが、平年より11日早く、昨年より20日も早い開花だそうです。確かに、 暖かい冬です。足下では、ツツジも咲いていました。これは、狂い咲きです。
P1030398_2  観泉寺は、今川氏ゆかりの寺で、当家累代の墓があります。荻窪駅から北西方向徒歩20分位のところ、静かな住宅街のなかに、堂々とした山門と本堂を構えてあります。周囲の竹やぶも美しく、春の枝垂桜は、見事です。
 荻窪といえば、井伏鱒二を連想するわけですが、彼の年譜を読んでいたとき、この寺の話題が、少し出てきました。[1957年59歳 12月盲腸手術で荻窪病院に入院。観泉寺の除夜の鐘とともに全身麻酔]。この2年後に、私の気に入りの小説『珍品堂主人』が発表されます。教師くずれの骨董屋が、面白くも悲しく、人生を飄々と過ごし行く物語。おすすめです。

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2007年1月15日 (月)

新年読初め

 年明けの4日から読み始めた網野善彦著『日本社会の歴史』(岩波新書上・中・下巻)を読み終えました。私にとっては、網野作品の3作目。通史ゆえに、変転する政治動向にページの多くが割かれ、次々と登場する政治支配者たちの名前に、いささかウンザリしましたが、網野史学のスリリングで挑発的な魅力は、十分に味わうことができました。
 上巻第一章の扉には、日本海を取り囲んで東北アジアと日本列島が、南北逆さに描かれた環日本海諸国図が載せられています。これは、日本列島の社会の歴史を、「アジアの諸地域との切り離しがたい関係のなかで考えてみたい」という著者の強い意志と方法論の表明なのです。そして内容は、アジア大陸東部の陸橋(千島弧・サハリン・北海道・本州弧・琉球弧)の形成から徳川家康による日本国家の再統一までを描いた、気の遠くなるような遠大な通史です。
 
 
 

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2007年1月14日 (日)

どんと焼き

 「7時点火」ということで、孫と一緒に走って会場へ駆けつけました。途中、バリバリバリと勢いよく燃え上がる火の音が周囲に響き渡り、木や竹を燃やす匂いが漂っています。P1030353_2 会場に到着すると、丁度、火柱のてっぺんにあった達磨さんが、焼け落ちるところでした。すでに20人前後の村内の人びとが、集まってきています。火の勢いの強いあいだは、みんな火から2,3間は離れて、見守っています。後から駆けつけてきたひと達も、達磨や注連縄などのお正月飾りを持ってきて、火の中にくべていきます。ビニール袋に包んだまま投げ込まれますので、ダイオキシンが少し心配です。以前は、火災の心配から、東京あたりの都市部のどんと焼きが廃れていったとP1030381いうことですが、近年は、この環境問題から、下火になりつつあるようです。しかし、工夫次第では、火災とダイオキシンは、ともにクリアーできると思います。
 下火になると、火を囲んだ人びとの輪が、徐々に狭まります。そして、ヤマボウシの木の枝先につけた繭玉を、焼き始めました。繭玉は、上新粉を湯で練って蒸し、団子にまるめたもの。それぞれの家庭で作ってきて各自焼くのですが、焼けあがった時は、周りの人びとに振舞います。私は昨年同様、遠慮なくこのP1030389振る舞いに預かりました。うるち米だけの素朴な味わいですが、よく噛むとおいしさが感じられます。なんといっても、風邪を引かないですむのです から、ありがたいです。甘酒の振る舞いもありました。焚き火で、顔や胸は火照ってるのですが、やはり熱い甘酒は、ありがたい。腹の中まで、あったかくなりました。
 その昔どんと焼きは、正月7日にやぐらを組み、その後小正月までの間、子どもたちがそのなかで集い遊び、ときには夜番までして過ごしたとのこと。しかし、大正のおわりころ、火災によって6人もの焼死者を出したため、その後しばらくは禁止されていたということです。この悲劇は、同町内での出来事だったようです。                                 

 

 

2007年1月 6日 (土)

おせち料理のこと

 今日はまだ松の内なので、正月のおせち料理について書いておきます。なにせ2,3日前から、胃がいささかも重いのも、これが原因ではないかと思うから。
  今年のおせち料理は、暮れの30日、1日がかりで妻が作りました。
P1030245_1  写真上左から、昆布巻き(昆布・ブリ・かんぴょう)、黒豆(黒豆・こんにゃく)、きんぴらごぼう(ごぼう・にんじん・唐辛子)、煮しめ(こんにゃく・たけのこ・干椎茸・やつがしら・にんじん・くわい・れんこん)、たまごとじ(ゆりね・ぎんなん・生椎茸・にんじん・鶏のひき肉・たまご)、だいこんの煮しめ。これ以外に、菊花かぶ(かぶ)、焼き豆腐の煮物(とうふ・つちしょうが)、そして数の子。これに、雑煮(餅・大根・にんじん・さといも・小松菜・鶏肉・ハマグリ・かまぼこ)。これらがわが家のおせち料理のすべて。こうしておせち料理の食材を書き出してみて、いも中心につち物が圧倒的に多いのに、あらためて驚きます。胃がもたれるのも、仕方のないことかもしれません。
 おせち料理は、「正月や節句のごちそうに用いる煮しめ料理」と広辞苑にはあります。節句は、1月7日の人日、3月3日の上巳、5月5日の端午、7月7日の七夕、そして9月9日の重陽の5つを指します。神様にお供えをした料理を、家族がそろって振る舞いに預かったことから、「おせち」と呼ぶようになったとのことです。

2007年1月 2日 (火)

元旦のこと

 午前中は、甘楽町の宝積寺に、お墓参りに行ってきました。ロウバイが、きれいに咲いていました。ご住職が檀家に呼びかけて、当寺を「花の寺」にしょうと、最初に植えられたのがこの花です。多分、一年のうちもっとも花の少ない季節だけに、ロウバイの透きとおった黄色は、地味ながらも目立P1030205_1P1030203_1ち、周りを明るくしていました。                   

    午後は、地区の年賀の集いが公民館であり、コップ酒を少しいただきました。50軒ばかりで区を構成しているのですが、全体の集まりは、正月と3月の年度末の二回だけ。現在の区長さんは、この地区では唯一養蚕をしてきた農家ですが、「お蚕は去年で止した」とのこと。18年前、この地に引っ越してきた頃には、隣り組(10軒の班)のなかにも、養蚕農家はありましたが、「たばこ銭にもならん」といって止めたのは、もう10年以上前になります。公民館の隣にある稚蚕共同飼育所が、昭和43(1968)年設立とありますから、30年前ころは、まだ養蚕は盛んだったのですね。
 夜は、遊びに来た孫たちと「お坊さまめくり」。百人一首を使っての坊主めくりですが、孫たちも、時には寺へ行く機会があるため、ご住職を「坊主」と称するのはまずい、ということで、「お坊さまめくり」となったわけです。でも、ゲームに興じてくると、「坊主来るな、姫来い」と、大人も子どもも大声で叫んでいます。

 

2007年1月 1日 (月)

祈り

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福島県の三春張子人形です。
300年以上の歴史をもつ、素朴で愛らしい張子人形。
年男のウリ坊たちも、張り切っています。
イラク、アフガン、チェチェン、ソマリアなどの戦争がおわり、人びとの平和な生活が、1日も早く戻りますことを、こころから祈ります。

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