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2007年1月26日 (金)

小説『千々にくだけて』

  「母語の英語は、十年以上、一行も書いたことはない」というリービ英雄さんは、20年来日本に定住している、アメリカ生まれの現代日本文学作家です。この作家については、万葉集を英訳したアメリカ人、ということぐらいしか知りませんでしたが、2年前、岩波の『世界』(05.2号)に掲載された「9.11ノート―あの日、ぼくは、ニューヨークに行くために、飛行機に乗った」を読み、強く惹きつけられたことを思い出します。著者の、このときの経験が、小説『千々にくだけて』に結晶します。
 主人公は、2001年の初秋、母国アメリカへの旅の途中、同時多発テロの発生で、経由地カナダに足留めされました。ホテルでテレビの映像を見、ニューヨークとワシントンに住む家族と電話する中で、徐々に事件の実像が明らかとなり、千々に砕け散った恐怖のなかに、母国アメリカとそこに住む人びとへの、深い悲しみを味わいます。
 9.11後を描いた作品は、マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画『華氏911』がありますが、粗野で間抜けなブッシュを、騒々しく徹底的にこき下ろしたこの映画は、気分が悪くて二度と観たくはありませんが(勿論この主人公を見たくないという意味)、リービ英雄さんの描く「9.11後」は、読後、静かに目を閉じて考え込むことを、求めてきます。

 印象深い場面を、引用しておきます。
 「キッチンの窓をちらっと見ると、淡雪が流れてきていた・・・淡雪ではなくよごれた白色の灰・・・灰の中に紙の切れはし・・・手をのばして、蝶をつかむように紙の切れはしを手に取った・・・そこにはワープロで打たれた文字が見えた・・・紙の端がこげていたけど、はっきり読めた。Please discuss itの次の行は、with Miss Kato at Fuji Bankと書いてあった。また空から何枚ものメモ用紙が降ってきて、デッキにちらばった。アパートに入って、リビング・ルームのテレビを付けた。もうすでに二機目の飛行機が突っこんだところだった・・・ミス・カトーがどうなったか、テレビを見ながら私はそのことばかり考えていた」
 「evildoers、と男が言っていた。悪を行う者ども、と下手な和訳が頭に響いた。日本語にはすぐならないことばだつた。四十年前のサンデー・スクールで聞き、それ以降は聞いたことはない。砂の城のように崩れた二つの建物の中にいた人たちも、たぶん、口にしたことはなかっただろう・・・The evildoers shall be punished  悪を行う者どもはかならずばっせられる・・・大統領の顔がフェイドアウトして、円錐を逆さにしたような長いあごひげのやせた男の細長い顔が映った。これが容疑者だ、というアナウンサーの声・・・長いあごひげの顔の、下の端すれすれに、infidels という英語の字幕が現れた。異教徒ども・・・一瞬、一千年前のテレビ討論を見ているような気がした・・・ストリートのテレビというテレビからも・・・異教徒どもに死を という意味の字幕が流れた」
 「30代の女性が、吹きだす煙を指して、叫んだ。Zealot pigs!  豚め! 豚ども! とすぐに頭の中で日本語が浮かんだ。しかし、Zealotは日本語にはならなかった。「宗教的過激派!」「ゼーロータイ!」「狂信的有神論者め!」世界最先端の都市の一角に上る煙を指して、古代ローマ時代のののしりが女の口から叫ばれた。「宗教的純血主義者!」「一神論の右翼!」次々と日本語が浮かんでは、あまりにも奇妙で、そのことばを頭から消し去った」。
 「また部屋の大画面のテレビをつけた。大きな窓から強い日差しが差し込んでいる郊外の家のリビング・ルームに、カリフォルニアの主婦が座ってインタビューに答えていた。何のなまりもない米語で話している主婦は、髪を白い布で覆っていた。私たちアラブ系アメリカ人もショックを受けました、と主婦が言っていた。ええ、アラブ人は米国をうらむ理由もあります。しかし、無辜なあれだけの人びとを殺すのは、何になるんですか、と静かに言っていた。for what? for what? 何のためですか、何になるんですか。白い布で覆われた主婦の顔に不安のかげが横切った。カリフォルニアの主婦の後ろで、3人の黒髪の子どもが、行儀よくというよりも真剣な顔つきで母親の話を聞いていた。その母親は、ことばや口調からも、アメリカ人なのである。「宗教的過激派の豚ども!」と叫ぶニューヨークの女と同じ言葉を口から発していた」。

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