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2007年2月22日 (木)

美国人の日本語による中国紀行文

 先に読んだ陳舜臣さんの『茶の話-茶事遍路』は、著者が中国南部の茶の産地を訪れ、茶の歴史と地理を縦横に紡いだ、貴重な歴史紀行文学でした。リービ英雄さんの『我的中国』(岩波書店)は、中国の京(みやこ)と辺境を旅して、現代中国の諸相を鋭くあぶりだした、刺激的な現代紀行文学です。前者が、台湾から移り住んだ在日中国人2世の日本語によるノンフィクションの傑作とすれば、後者は、アメリカから新宿に移り住んだ日本在住アメリカ人の日本語による紀行文学の傑作です。リービ英雄さんは、少年時代に、外交官だった父親とともに台湾と香港での生活、つまり「両親が話すのとは違ったことば」が「母語ではないのにあたかも母語のように家の中まで響いていた」日常に囲まれた生活を経験しています。著者は、「中国大陸で生まれた英語の国名をもつ島国から、ぼくは中国に来た。もう一度ことばを聞くために、大陸にきたのである」。定住地日本、母語としての英語、使い続ける日本語、幼少年期体験の中国語、そして中国の現代史と今日現在への尽きることない好奇心。『我的中国』のキーワードです。

 印象に残った文章を、いくつか書き留めておきます。
 河南省の奥地の農村にて。
 「農民の妻が中庭の井戸の水をくんで、ぼくらに玉子スープをつくってくれた。・・・・・美国人(メイグオレン)だが、日本(ルーベン)に常住(チャンジュー)している、と自分のことを説明した。しかし、「日本(ルーベン)」に対しては相手は何の関心も示さず、話題はひたすら「美国(メイグオ)」の方に集中した。「美国(メイグオ)」と「中国(ジョングオ)」の問題は、政府の問題であって、人民の問題ではない、と農民の妻はおおらかに言いながら、プラスチックの丼にうす味の玉子スープのお代わりをまた入れてくれた。「日本(ルーベン)」からぼくが来たということは、かれらにとって何の意味もなかった。・・・・・記念写真を、と農民の妻が、奥の部屋から日本製のポケット・カメラを持ち出した。中庭で全員がポーズを取った。高校生の息子はいっしょに並ぼうとせず、母親から「ほら、美国人(メイグオレン)といっしょに写真を撮ろうよ」と促された。「美国(メイグア)は嫌いだ」と高校生の息子が断った。」(老公路にそって)
 
 鄭州の労働者階級の市民の1ヶ月の給料と同じ金額のグリーン寝台車に乗り合わせた30代と40台の男性2人との会話。
 「この瞬間を待っていたかのように、それまで一言も話さなかった30代のヤツが、年収はいくらなのか、といささかの遠慮もなく、聞いてきた。日本の円で、言った。40代のヤツがそくざにそれを人民元に「翻訳」した。聞かれた、それなら聞いてやろう、と思って、「あなたたちは」とすぐにたずねた。40代のヤツが答えた。「あなたのひと月分は俺たちの1年分だ」と。・・・・・30代のヤツも40代のヤツもセイコーかオメガの金の腕時計の手首と指輪をはめた手を動かし、ポケットからその身分証明証を出した。・・・・・2人は農民だった。洞窟の家もあるという、同じ村で育った。そして今、山水画のようだが山水画より野生的でけわしい、かれらの故郷にあるあの山々を次々と砕いて、広州の建設会社に売る、それが仕事なのだ。」(山を売る人たち)
 
 広州市へ向かうスーパー特急列車から、窓にじっと見入った。
 「窓の外に顔が現れた。真っ黒な顔だった。スピードを落とした列車の窓に、同じような顔がまた現われた。そして顔がふえた。数十人、そして数百人の顔となった。トンネルの中で数百人の労働者がハンマーを打って働いていた。夜中の3時頃だった。・・・・・筋肉をつかって、石を砕く。石を運ぶ。10何時間も、そのことを繰り返す。そして、200円か300円をもらう。」
 
 広州の駅に着き、ショッピングセンターに入ってみる。
 「通廊を歩きだすと先のほうから静かな機械の音がして、そのうちに子供の甲高い声も聞こえてきた。通廊が途中でガラス張りとなって、ガラスの向こうには1千台もあるコンピューター・ゲームの部屋が見渡せた。1千人の小学生がコンピューター・ゲーム機の前に座って、広東語ではしゃいでいたのである。・・・・・
 やがて洋服売り場に出た。・・・・・そこは婦人服しかなかった。・・・・・売り場の奥から耳をつんざくような、百人もの女の声がこだました。奥の方で人垣が築かれていた。女ばかりの、すさまじい人垣だった。・・・・・天井からたれ下がる、20元とか30元とかいった売出しのちらし。ピンクと水色のブラジャーが人垣の上で飛び交い、百人の主婦の口から、抑揚に激しい広東語の声が一斉に上がり、騒然となった。
 歴史の終わりの光景、か。ぼくには分からない。しかし、確実にひとつの歴史の終わりなのだ。声も、色も、鮮やかだった。
 広東で始まった大陸の近代史。阿片戦争から150年、日清戦争から100年、「解放」から50年、「文革」から30年、「改革解放」から20年、大陸の近代史の長いトンネルを抜けると、けっきょくはこのような明るさにたどりつくのか。」(歴史のトンネルを抜けて)
 
 西安から「革命の聖地」延安への道。若い市民の運転する車が、農民の運営する露天前で止まる。
 「若い農夫がテーブルに並んでいる饅頭を指して、どうですか、とぼくらに聞いた。ほしい、とぼくが言った。農夫が手に饅頭をとって、ぼくと、日本人カメラマンに渡そうとした。その瞬間、運転手の白い手がとつぜん伸びて、饅頭をにぎった農夫の黒い手をぴしゃりと平手で打った。 「かれらの食べるものをお前の手でさわるな!」と運転手がどなった。農夫はたちまち手をひいた。農夫の黒い顔には驚きの表情はなかった。むしろ慣れたような屈辱の影が薄々とよぎっただけであった。・・・・・
 ぼくは4千年つづいた何かを垣間見てしまったような気がした。」(延安への道)
 
 紀元1000年に、ヨーロッパがまだ暗闇に包まれていた時代に世界最大の都市だった開封(カイフォン)にて。
 「第4人民医院の裏のボイラー室には、西洋の周辺からシルクロードを経て1千年前に渡ってきたユダヤ人が造ったシナゴーグの、唯一遺跡として残っている旧い井戸がある・・・・・西洋人が東洋人になるという、近代の常識をひっくり返す可能性について、ぼくははじめて日本に渡った青年時代から考えつづけてきた。だからそこはぼくにとってまさに大事な場所なのだ。」(60年代のニュース)

 開封から鄭州へ向かう乗り合いバスのなかで。
 「どこの国家の者か、という痩せた男の質問にとりあえずは、美国(メイグオ)、と答えた。そう答えた瞬間に・・・・・「大使館」という声があがった。「美国人だ。大使館を爆撃した!」と。ぼくは一瞬だじろいだ。アメリカ軍によるユーゴの中国大使館の空爆からそれほど時間が経っていなかった。
 しかし、美国にはもういない、日本に常住しているのだ、とぼくはあわてて付け加えた。・・・・・「美国」が「日本(ルーバン)」に変わったとたん、太った男はたちまち、南京虐殺についてどう思うかと聞き出した。ぼくはまたたじろいだ。」(「日本」の夜)

 中国の西の果てにある大都市蘭州にて。
 「到着ロビーにはぼくの名前を英語で書いた紙を持つ、30前の女性がいた。「ピャオさんですね」「はいピャオです。お疲れ様でした」と彼女は流暢な日本語で答えた。・・・・・ピャオさんの苗字のことを聞いてみた。ピャオさんは紙に、「朴」と書いた。「パクです。私は朝鮮族です」旧満州こと東北で生まれて、こちらの大学院に入学するために西北に来た、ということだつた。・・・・・「朴さん」の声を聞きながら、「朝鮮族中国人」と「在日朝鮮・韓国人」とでは、アイデンティティの感覚はたぶん違うだろう、とひとりで日本語で考えもした。
 「ぼくはじつは少数民族なのだ」と、はじめて北京を訪れたときに会った40に近い市民が、とつぜん言いだした。「どの民族か、当ててみてください」・・・・・満州族?違う。モンゴル族?朝鮮族?違う。どう考えてもチベット人にもウィグル族にも見えない、典型的な東アジア人の顔だった。わからない、とぼくはあきらめた。男の顔に笑いが浮かんだ。日本人、とかれが言った。じつは、母が日本人の残留孤児なのだ。文革時代にそれが知られてしまうと危険だったので子供にも言わなかった。高校生になってはじめて知った。
 ぼくははじめての中国だった。アメリカ大陸の日系人以外で、「日本人」が「少数民族」と呼ばれるのを始めて耳にした。」(西の極みへ)

 

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