« シクラメンが咲いた | トップページ | 加山又造展と景徳鎮千年展 »

2007年3月14日 (水)

三陸海岸

P1030799 一昨日から昨日にかけて、岩手県の宮古へ行ってきました。往路、那須あたりまでは快晴で新幹線車中も暖かく、本を読みながらウトウトしていたのですが、福島に入ったあたりでふっと目を覚ますと、一面真っ白の雪景色に変わり驚きました。外はしんしんと雪が降り続き、仙台を過ぎ盛岡に近づくにつれ、ますます厳しい風雪となりました。写真は、車中から花巻近くを撮りました。
 

P1030810_1  盛岡で車に乗り換え、雪の宮古街道を東進しました。区界(くざかい)峠を越えても、雪が降り止む気配はなく、いよいよ東北全域が雪一色なのかと諦め気分でした。ところが、峠を越えて4,50分ほど行ったあたりから、雪は小降りとなり、自動車道も路面が露出し始めました。しかも東の空が明るい。更に走ること30分。ついに宮古に到着。快晴でした。
P1030817_1 仕事の合間に、陸中海岸を見てまわりました。三陸海岸は宮古市を境に、その北側は隆起地形で断崖絶壁の景観となりますが、南側は沈降地形でリアス式海岸が発達し、良港が多くあります。写真は、宮古の北方にある真崎海岸。断崖と奇岩を映す海の水色が、たまらなく美しい。P1030840_1
 三陸沖は、世界三大漁場のひとつ。夏期はイカ釣り、秋はサンマ漁。これらの漁船を見守っている陸中真埼灯台。案内板に、1959年初点灯とありました。空の紺青色が、まぶしい。あの雪は、幻だったのでしょうか。真崎海岸と宮古市との間に、田老町(いまは宮古市)があります。P1030847_1漁港では、あちこちで5,6人の男女が集まり、陸揚げされたばかりのワカメを加工していました。寒い浜風が吹いてはいましたが、早春の陽をあびながらの、何となくのどかな風景でした。 この漁港を、長い防潮堤がすっぽり取り囲んでいます。高さ10メートル、総延長2,433メートルの巨大な堤防です。P1030837_1 1960年5月22日、チリ地震の発生から22時間後に襲った津波で、三陸海岸で142名が亡くなっていますが、田老町では、人的被害は皆無でした。この長大な防潮堤が、町民を救ったのです。しかし、この堤防造営の背景には、度重なる歴史的な災厄がありました。
P1030854_1  田老村(当時)は、1933年3月3日の深夜、三陸沖250kmの海底を震源とするM8.1の巨大地震発生から30分から1時間たったころ襲来した津波で、壊滅的な被害を受けました。死者972人(人口2590人)倒壊戸数303戸(戸数513戸)。昭和三陸地震津波です。町の図書館にあった本の写真で見た津波襲来直後の田老村は、1軒の家もなく、 更地同然となっていました。P1030856_1_2過去には、1896年にも、最高潮位38.2メートルにも及んだ明治三陸地震津波が襲っており、全国で22,000人もの人が亡くなっています。こうした度重なる津波災害を貴重な教訓として、長大な防潮堤が築かれたのです。
  2003年には、日本で始めて「津波防災都市宣言」を決議しています。港には、潮位監視システムが整備され、潮位観測データーが1分間間隔で更新されているのが、ネットで見ることができます。
P1030917_1  三陸海岸沿いの国道には、写真の道路標識があちこちにありました。.

.

.

P1030842_1港近くの集落の避難路表示。これも、あちこちにありました。

 

.

.

.

P1030887_1 断崖絶壁の真崎海岸とは異なり、浄土ヶ浜は典型的なリアス式海岸であり、湾内は、やさしく穏やかな地形です。浄土が浜は、きっと陸中海岸の人びとの宝だと思います。こうした宝をもった人びとは、幸せだと思います。P1030885_1          
  人びとの宝としてのこの浜に、「明治三陸津波の碑」がありました。石碑には、大地震のあとには大津波がくるから遠くへ逃げなさい、家を建てるときは、津波の来ないところに建てなさい、と諭しています。

                                                                                            

                                                                 

                                                         

 

« シクラメンが咲いた | トップページ | 加山又造展と景徳鎮千年展 »

コメント

初めましてタカと申します。

ただ今、東北地方太平洋沖地震のチャリティー活動をカナダで開始しました。しかし、資料が足りないのと、どこまで今回の地震が酷いものかを例える為に、里山のフクロウの堤防の写真を、校内プレゼンテーションに使いたいと思っております。もし可能でしたら返信の方、宜しくお願いします。

千葉県旭市在住の高校理科教員で「旭市の津波被害を記録する会」の春川と申します。旭市でも津波で13名の犠牲者をだしました。今後防潮堤の嵩上げ問題が焦点になることから、この夏に田老を現地調査に訪れ被災後の写真を撮って帰りました。Web上で被災前の写真を探しておりましたところ、このブログの2007年3月14日の上から6番目の堤防の写真が同一地点と分かりました。つきましては、①旭市文化祭(2011年11月5日、6日)における市民への報告展示と、②関東理科教育研究発表会(同11月18日宇都宮にて)でのパワーポイントによる映写につきまして許可頂けますようお願い申し上げます。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 三陸海岸:

« シクラメンが咲いた | トップページ | 加山又造展と景徳鎮千年展 »