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2007年4月21日 (土)

海の壁、大津波のこと

 吉村 昭著『三陸海岸大津波』(文春文庫)を読みました。
 先月、陸中海岸へ旅行したときには、この本のことを知りませんでした。その後盛岡へ行ったとき、駅の書店の入り口近くに平積みにされている本書を見かけ、手にとってみました。明治と昭和とチリの大津波のことが、詳細に書かれています。旅行前に本書を手にしなかった自分の迂闊さに呆れながらも、まだ彼の地の印象が、強く心に残っているあいだに、この本に遭遇した偶然の喜びを、かみしめています。
 吉村 昭の作品は、随分前に、脱獄を繰り返す無期刑囚の男を描いた『破獄』を読んだことがありますが、久々に再会した感じです。記録文学の力強さを、感じさせてくれました。

   著者の吉村昭は、三陸海岸に魅せられ、何度もこの地を旅しています。「三陸地方の海が人間の生活と密接な関係を持って存在して(おり、また)海は生活の場であり、人々は海と真剣に向い合っている」ことに、著者は魅力を感じます。また三陸海岸に「海らしい海をみる。屹立した断崖、その下に深々と海の色をたたえた淵。海岸線に軒をつらねる潮風にさらされたような漁師の家々」が、著者の眼に「まぎれもない海の光景として映じる」というのです。そして、異様な大きさの防潮堤に眼を奪われ、それが大津波のための構築物だと知り、海の恐ろしさに背筋の凍りつく思いをします。そして、大津波を知りたい、と思うに至ります。
  私の三陸への旅を思い返してみて、著者の言葉のひとつひとつに、強い共感を覚えます。海の色の透明感は、昔見た波照間島の珊瑚礁の水色を想起させ、漁港できびきびと立ち働く漁師たちの姿は、三陸の海の豊かさを感じさせてくれます。田老町の防潮堤は、大津波の恐怖を連想させるに十分な、厳めしさを備えていました。

 1896年(明29)6月15日。この日は、陰暦の5月5日で端午の節句。また、日清戦役からの凱旋兵の祝賀会が、各地で開催されていました。「家々に灯がともり、その灯をかこんで端午の祝いや凱旋兵を歓迎する酒宴は一層にぎわいをましていた。」
 19時32分30秒、宮古測候所は弱震を記録。その後2度の弱震。人々は、振動のやむのを待って、再び杯を取り上げていました。
 そして、「弱震・・・から20分ほど経過した頃、・・・闇の海上では戦慄すべき大異変が起こりはじめていた。海水は、・・・海岸線から徐々に干きはじめ・・・湾内の岩はたちまち海水の中からぞくぞくと頭をもたげ、海底は白々と露出した。ある湾では1,000メートル以上もある港口まで海水がひいて干潟と化した。干いた海水は、闇の沖合いで異常にふくれ上がると、満を持したように壮大な水の壁となって海岸方向に動き出した。・・・「ドーン」「ドーン」・・・海上の不気味な大轟音に驚愕した人々は,家をとび出し海面に眼をすえた。そこには、飛沫をあげながら突き進んでくる水の峰があった。波は、すさまじい轟とともに一斉にくずれて村落におそいかかった。家屋は、たたきつけられて圧壊し、海岸一帯には白く泡立つ海水が渦巻いた。」
 著者は、この明治大津波の数少ない体験者の証言から、貴重な事実を記録しています。「羅賀は、楔を打ちこんだような深い湾の奥にある。押し寄せた津波は、湾の奥に進むにつれてせり上がり、高みへと一気に駆け上っていったのだろうが、50メートルの高さにまで達したという事実は驚異だった。」

 1933年(昭8)3月3日午前2時32分14秒、中央気象台が強震を記録。積雪が大地を覆う外気温は、マイナス10度。人々は驚いて家から走り出ましたが、「冬期と晴天の日には津波が来ない」との言い伝えから、再び眠りの中に落ち込んでいきました。
 「沖合いに海水と岩の群れをまくし上げた海面は、不気味に盛り上がった。そして、壮大な水の壁となると、初めはゆっくりと、やがて速度を増して海岸へと突進し始めた。壁は、海岸に近づくにつれせり上がり、一斉にくだけた。
 家々には、地震で起きた人々の手でともされた灯が点々とつらなっていた。屹立した津波が、四囲を水煙りてせかすませながら村落のうえに落下し、たちまちにして灯は消えた。・・・津波は、三回から六回まで三陸海岸を襲い、多くの人々が圧殺されひきさらわれた。・・・凍死する者も多かった。」
 二度の大津波で最も大きな被害を受けた、岩手県下閉伊郡田老村(現在宮古市)の尋常高等小学校生徒の作文が、引用されています。
 「・・・・・私は、私のおとうさんもたしかに死んだんだろうと思いますと、なみだが出てまいりました。下へおりていって死んだ人をみましたら、私のお友だちでした。私は、その死んだ人に手をかけて、「みきさん」と声をかけますと、口から、あわが出てきました。」(尋三 大沢ウメ)
 著者は、この大沢ウメさんにインタビューし、書き記しています。「この地方では、死人に親しい者が声をかけると口から泡を出すという言い伝えがある。その時も泡が出たので、幼い少女の死体をかこんでいた人たちは、「親しい者が声をかけたからだ」と、涙をながしたという。」

 1960年(昭35)5月23日午前4時15分、気象庁はチリで発生した激震を観測するとともに、同日20時50分頃、地震によって起こった津波がハワイの海岸を襲い、60名の死者を出したことを承知していました。しかし、気象庁は、チリ地震による津波が日本の太平洋側に来るとは考えず、津波警報を発令しませんでした。
 5月24日午前3時頃、大船渡市の漁師たちは、海面の異様な現象から津波の襲来を察し、岸に向って「津波だ、津波だ」と叫ぶとともに、津波の時には沖へ避難しろとの法則にならって沖に船を進め、難を逃れました。
  この津波は、明治や昭和の大津波と違って、津波特有の前兆がなく、「海水がふくれ上がって、のっこ、のっことやって来た」といいます。チリから三陸海岸まで、18,000キロの距離を約22時間30分かけて、大津波が押し寄せてきたのです。
 岩手県下の死者60名中、大船渡市の死者は52名でした。しかし、明治と昭和の大津波で最大の被害を受けた田老町の死者は、零でした。これは、田老町の人々の、津波との戦いの大きな成果です。

 大津波の死者数の比較    1896年・・・・・26,360名
                   1933年・・・・・ 2,995名
                   1960年・・・・・  105名

 この書の最後に、著者は、三陸海岸の人々の津波との戦いのあとを、田老町に見ます。
 「津波太郎(田老)」とあだ名されるほどに壊滅的打撃を受け続けてきて田老は、危険極まりない場所でした。「しかし、住民は田老を去らなかった。小さな町ではあるが環境に恵まれ豊かな生活が約束されている。風光も美しく、祖先の築いた土地をたとえどのような理由があろうとも、はなれることなどできようはずもなかった」のです。田老町の人々は、津波と戦いながら生き続けていくことを、選択したのです。
 昭和大津波の翌年からの防潮堤建設。1958年(昭33)には、全長1,350メートル、上幅3メートル、根幅最大25メートル、高さ最大7.7メートル(海面から10.65メートル)の大防潮堤が完成しました。その後も防潮堤は増強され、これ以外にも、避難道路の整備や、毎年3月3日の全町あげての津波避難訓練など、田老町の津波との戦いは、現在にもキッチリと受け継がれています。

   2004年12月26日(日)朝8時頃、スマトラ島沖で発生したマグニチュード9.0という史上最大規模の巨大地震により大津波が発生しました。この巨大津波はインド洋の各地を襲い、30万人を越える死者を出したことは、まだ記憶に新しいことです。
  昨年亡くなった吉村昭は、恐らくテレビ画像を通して、この大災害に胸を痛めていたと思います。本書が書かれたのは、既に40年近く前のことです。しかし私は、今もなお「歴史の教訓を現実化せよ、国際化せよ」という吉村昭の声が、本書から聞こえてくるようです。

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