憂いは病と老
職場の後輩が、肺がんで亡くなりました。この2月に、腹部の激痛を訴えて入院し、数日の検査期間を経て、他の病院に転院しました。地元では、肺がんの治療で有名な病院でした。はたして、彼の病名は、肺がんでした。他の友人が、先週の日曜日に見舞いに行った時は、病人らしく弱々しくはあったけれど、仕事の話などを交わしたといいます。まさか、4日後に亡くなるとは、と絶句していました。
2ヶ月前には、3歳年長の先輩を、すい臓がんで亡くしたところです。
還暦を迎えて、周囲の友人・仲間たちに、こうして病に倒れる人たちが、ぽつぽつ出始めた感じがします。10年前よりも、確実に多くなっています。自分には、病も死も縁遠いものと思っていても(実は、そのように願っているのですが)、周りの友人や知人の死に直面すると、自分と病や死との距離感を見失ってしまいそうな感じとなります。
還暦を迎えた竹内好が、『老年問題私見』(1970「人間として」創刊号)というエッセーのなかで、伊藤整の『病中日記』を取り上げています。
「ある残酷な予感が読む前にあった。病気が病気だし、しかも急速な進行だったし、しかも伊藤さんが、その病気をおそれること市虎よりもはなはだしいという噂ばなしを耳にしていたからである。・・・・・病気のすさまじさと釣り合って伊藤さんの女々しさが出ているところがよかった。・・・・・半ば気配を察しながら、だまされたか、だまされるふりをして、ガン研病院への入院を納得するくだりは、そぞろ粛然となった。「夜涙出てとどまらず、仕事中途のもの多い故なり。・・・・・」ああ。このせとぎわに立たされる辛さが、私にはまだわからない。予測の域を超える。・・・・・伊藤さんは私より5歳上である。」
還暦の竹内好は、「老境というものが、まだ眼にみえていない」と同じ文章の中に書きつつも、伊藤整の病を深刻に受け止めました。竹内は、「人生のうれいは老と病」とし、伊藤が「病」の運命を得たのに対し、自分は「老」を選びたい、と思いました。しかし、この文章を書いた7年後、竹内も鬼籍の人となりました。
30年以上前の人の、つまり、ほぼ一世代違うひとたちの「還暦」という年齢意識と、私のそれとの差は、果たしてあるのかないのか。友人を送って帰ってきた今夜は、その差をほとんど感じません。やはり私にとっても、人生の憂いは病と老なのだ、と痛感します。
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