『バール、コーヒー、イタリア人』
この本の帯に書かれた「何故イタリアには、スタバもコンビニもシャッター通りもないのか?」という言葉に惹かれて、読んでみました。著者の島村菜津さんは、この疑問を解く鍵を、イタリアに15万軒あり現在も増え続けているバールの存在にあると考えます。「イタリアはさながら、バールの迷宮である」、つまり街にも村にも、森にも海岸にも、修道院にも大学にも、ありとあらゆるところにバールがあるというわけです。そしてバールでは、エスプレッソが飲めて、お酒が飲めて、軽食が食べられて、時にはケーキ屋だったり、ジェラート屋、たばこ屋、トトカルチョ屋であったり。そしてイタリア人は、外食費の3分の1をバールに投じているというのです。
バールの食べ物は、地元のおいしい物に的を絞ってだされます。しかも注文は、お客のわがままが許される。エスプレッソひとつとっても、自分の好みに合わせた注文ができるという。マニュアル化されたチェーン店では、あり得ないことです。「コーヒー・フレッシュではなく牛乳を」の依頼に対して、アルバイト店員が「それはできません」との回答、という著者の経験が書かれています。私は喫茶店に入ると、大概はミルク・ティーを頼みますが、このときいつも交わされるのが、「牛乳で」「できません」の会話。一般の喫茶店はそうでもないのですが。こういうことがありました。ある喫茶店でトマトジュースを注文した折に、氷を入れないでと頼んだところ、アルバイト君が店長に訊きに行っての回答は、「氷を入れないと分量が半分なりますが、結構ですか」だって。こんなことイタリアにあるのかなあ。
バールの何よりの魅力は、バールマン。はじめての客も3度目には、好みを記憶してくれているし、「彼が左利きなら、左側にスプーンをまわして出す」といった具合。スタバには、足を運べませんね。聞き上手も、バールマンの大切な能力だとか。「子連れで旅して、バールで哺乳瓶にお湯を頼むと、10代の若者が、黙って煮沸消毒し、人肌のミルクを差し出す」といった経験も報告されています。プロ意識が徹底しているのです。
バールのもうひとつの魅力は、その地方、その店にしかない食べ物・飲み物がだされること。地方主義、個人主義が徹底している。「みんなで同じ方向に流れるのは嫌いなんだ。みんな違うのがすきなんだよ」。あるバールマンのこの言葉こそ、冒頭の疑問の回答なのかもしれません。
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