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2007年5月12日 (土)

朴裕河著『和解のために』

 パク・ユハ著『和解のために ― 教科書・慰安婦・靖国・独島』を読みました。
 通勤途上の車中で読み終えて、小さなため息とともに眼ににじみでた涙を、そっとぬぐいました。ため息は、いまだ隣国の人々の心を傷つけて飽くことのない、日本の右派の政治家や知識人に対するやり切れなさから漏れたものであり、涙は、ひとりの韓国人知識人の、勇気と知性に満ちた、静かに語りかけてくる和解のメッセージへの、心の底からの共感と連帯の気持ちにより、こみ上げて来たものでした。
 著者の朴裕河さんは、現在、世宗大学教授で、日本近代文学を専攻しています。慶応大学と早稲田大学で学び、帰国後、夏目漱石、大江健三郎、柄谷行人の翻訳など、日本近現代文学、思想を母国に紹介しています(本書著者紹介から)。

 最終章の最後の1ページ余の記述をそのまま引用し、この本の紹介とします。

 「和解なき「友情」は、幻想に過ぎない。「和解」のためには、何よりも、過去に国家が犯したことがらに対して責任を負うべき主体と対象が、決して単一ではないとの認識が必要である。そして「日本」や「韓国」という主体を安直に名指してすますのではなく、日本の誰が、韓国の誰が、そして彼らのどのような思考が、内部/外部の他者を支配と暴力の対象とみなすよう仕向けたかを考えるべきである。複雑な様相をみせる、それゆえにわたしたちを混沌の淵に追いやっている事態を単純化しない忍耐力こそが、理解と和解の糸口を開いてくれるに違いない。
 韓日がともに闘うべきは、単一の主体として思い描く「日本」や「韓国」ではなく、互いの内部に存在する戦争を熱望する暴力的な感性(小林よしのり)と、軍事武装の必要性を強調し過去の戦争に対して謝罪する必要はないと主張する戦争への欲望(西尾幹二)、そして他者を非難しながら田舎者と蔑み(李文烈)、他者の痛みに無知なまま恐怖をあおる(趙廷来)言葉の側である。暴力的思考と憎悪と嫌悪を正当化することでみずからの居場所を確保しょうとする、排他的な民族主義の言辞にともに抵抗できるとき、韓日間の「友情」は、はじめてその実を結ぶことだろう。
 恐怖は警戒心と暴力を呼ぶ。恐怖心にかられることが相手に対する無知の証しでもあるという点では、韓日両国にいま必要なことは、互いの痛みについていま少し理解しあうことである。
 そのようにして互いに理解を深めあった韓日の若い世代が、暴力的な感性を掻きたて戦争を容認する知識人と政治家に抗い、ともに彼らの命令を拒否できる日、みずからの幸福な日常と私的な絆を破壊し去る、それゆえに彼らの人生を台無しにする国家の呼びかけに対し、インターネットを介してそれを拒否できるほどの信頼関係が紡ぎだされる日、そしてお互いに相手に狙いを定めるのではなく、みずからの内部にある暴力的な思考を拒むキャンドルデモが韓日の間で可能となる、そのような日が来るとしたら、その日わたしたちは、ともに100年前のあやまてる始まりが遺した傷痕から解き放たれ、新たな100年を準備できるだろう。」

 是非、一読を薦めたい、貴重な本です。

 

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