『覚悟の人-小栗上野介忠順伝』
佐藤雅美著『覚悟の人-小栗上野介忠順伝』(07.3.20岩波書店)を読みました。
小栗忠順(ただまさ)についての私の知識といえば、幕末期の優れた官僚で、日米修好通商条約の批准書交換のためにアメリカに派遣された一員であり、横須賀造船所を建造し、そして、群馬県の倉渕村(現在高崎市)権田に縁深い人だった、ということです。年に何度か、権田の信号近くの寺の山門にある「小栗上野介忠順・・・」と記した看板を横目に通り過ぎながら、いずれ訪ねようと気に掛かっていた人物です。
作者の佐藤雅美さんは、私にとっては、この本がはじめて。経済的な側面から歴史を描いた作品が多いようです。
1860年(万延元年)、小栗ら77人の日本使節団は、アメリカ艦隊の旗艦ポーハタン号に便乗してワシントンへ向いました。使節第三席の小栗には、日米間の通貨問題の交渉が、密かに委ねられていました。
「日米の主要通貨はともに銀貨の、アメリカ側はメキシコドル、日本側は一分銀だが、一分銀は三倍の価値を付与されている・・・紙幣のような通貨だった。重さはメキシコドルのほぼ三分の一」。ところが、ハリスとの間で締結された条約には「通貨の重さどおりの交換」と言う条項が入っていました。となるとどうなるか。本来は、メキシコドル1枚=一分銀1枚。ところが条約によれば、メキシコドル1枚と一分銀3枚との交換になります。つまりアメリカ人は、1万円に対して3万円貰え、日本人は3万円で1万円しか貰えない。
日本側の交渉当事者たちは、「一分銀は三倍の価値を付与されている紙幣のような通貨」ということをよく理解していなかった、というのです。ハリスやポーハタン号の艦長はじめ横浜在留の欧米人たちは、香港や上海から大量のメキシコドルを持ち込み、小判や日本の商品を買い付け、巨額の儲けを懐にしました(後に、このことがアメリカ国内でも問題となり、ハリスは寂しい晩年を送ることになります)。一方、日本の経済が大混乱に陥ったのは、当然のことでした。しかし、条約ではこの極端な不平等は、貫徹されています。小栗に託されたのは、この通貨の不公平をアメリカ本国政府に正そうというものでした。しかし結果は、本国政府国務長官も耳を傾けることなく、失意の帰国となりました。
「小栗様御役替え七十回」と噂された「小栗は頻繁に御役を任じられ、御役を免じられ」ました。1860年(万延元)から68年(慶応4)の間に、主なものだけ挙げてみると、 外国奉行・勘定奉行・江戸南町奉行・歩兵奉行・勘定奉行・陸軍奉行・勘定奉行・軍艦奉行・勘定奉行・海軍奉行・陸軍奉行・勘定奉行と目まぐるしく、異動を重ねています。なかでも勝手方勘定奉行(主計兼主税局長)を繰り返し勤めています。金の捻出の名人であったからです。その秘密のひとつは、「貨幣改鋳益金」。「横浜で手に入れた一ドル貨を江戸に運んで二部金(0.五両)に鋳直すと、ほぼ二個(一両)をつくることができる。そのころの横浜の市中両替相場は一ドル=0.五両。原価は半値だから二倍が儲かる」。
沈着冷静にして優秀な能吏であった訳ですが、小栗が「上野介」を名乗ったあたりは、おもしろい。江戸の初期から、「守」と比べて「介」は何となく軽い感じがして名乗る者が少なく、しかも、吉良上野介義央の事件の後は、上野介を名乗るものは一人もいなかった。ところが、「小栗が上野介を名乗った。どうしてなのか?・・・「なに、上野国と縁があるまでのこと」と小栗は受け流したが・・・不吉といえば不吉な名で、小栗もまた吉良と同様、首を討たれて果てる。」
小栗は、清廉潔白にして直言の人でした。将軍後見職となった徳川慶喜に対する批判の舌鋒は、鋭く激しい。「中納言(慶喜)様は卑怯未練な振る舞いにおよんで恥じることのない方です」。小栗にとって慶喜は唾棄すべき男だったのです。
幕府内に主戦論が高まっていた折、逃げ腰の将軍慶喜は、老中板倉勝静に問いかけます。「彼を知り、己を知らば百戦殆(あや)うからずやという。今日でも十分に通用する格言だ。ためしに問おう。譜代旗本の中に西郷吉之助に匹敵する人材はいるか?・・・大久保一蔵に匹敵するものはおるか?」板倉答えていわく「おりません」。慶喜は、だから戦わないと自己納得します。しかし、著者佐藤雅美さんは、明言します。「江戸には小栗がいる。」
江戸にいた小栗はそれ故に、新政府に恐れられました。小栗は、幕府体制維持の強硬派であり、徹底抗戦を主張してやまなかった巨魁です。小栗が慶喜に進言した作戦は、長州の大村益次郎をして「幕府がもし小栗の策を用いていたならば、われわれは完敗しただろう」と言わしめました。しかし、弱気で決断の出来ない慶喜によって御役御免となりました。
罷免された小栗は、上野国榛名山西麓の権田村に、一族と家来たちを引き連れて向います。そこに官軍の命をうけた高崎・安中・吉井の800人からの追っ手に捕縛されます。
「翌6日の朝、小栗ら主従4人それぞれに茶漬けと頭のない鰯の干物と香の物という膳がだされた。"尾頭付き"という。"尾頭付き"は神事・祝事など特別なときに供される。頭がないのだ。このあと、一言の詮議もなく、問答無用で処刑すると膳はいっている」。本書で、もっとも印象深い一節です。このあと、権田の烏川にて斬首されました。享年42歳。
豊富な資料を駆使して、幕末期の政治・経済問題に、執拗に迫ります。表現は、抑え気味で冷静ですが、一人ひとりの息遣いが感じられるほどに、語り口は熱を帯びています。慶喜や勝海舟を切って捨てるが如き容赦のない批判は、小栗の批判であり筆者の批判でもあるのでしょう。明治維新を題材にした名著が、一冊ここに生まれました。
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