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2007年5月27日 (日)

小栗まつり―旧倉渕村権田を訪ねる

 昨日アップした『覚悟の人』を読んでいるさなか、木曜日の朝刊に「小栗まつり―小栗上野介生誕180年記念祭」の案内記事を見つけました。メインは史跡めぐりとあり、早速予約。今日、旧倉渕村権田へ、家内とともに行ってきました。
 小栗の年譜によれば、1827年(文政10)6月23日誕生、1868年(慶応4)閏4月6日斬首、とあります。まさに生誕180年である訳ですが、同時に140回忌にもなります。先の小説でも年譜でも、死亡日を「閏4月6日」としているため、命日には余り気に掛けていなかったのですが、現地に行ってみて、新暦でいくとまさに今日5月27日が命日だ、ということが分かりました。小栗が一時身を寄せた東善寺では、小栗上野介父子と殉難の家臣および村人の140回忌法要が、厳かに営まれていました。 

P1040390  自宅から40分くらいで、受付会場の倉渕中央小学校へ到着しました。体育館では、写真パネルを中心に企画展が開かれていました。ワシントン海軍造船所での記念写真(部分)です。前列右から2人目が34歳の小栗。ここは造船とともに大砲、小銃、砲弾なども製造する大工場でした。ここでの経験が、横須賀造船所等の建設による日本近代化の具体像を、小栗にもたらしました。
 
P1040399 史跡は、市役所(現在は高崎市)のマイクロバスで巡り ました。最初に行ったのは、山中奥深くひっそりと立つ「姉妹観音」。 小栗上野介の用人塚本真彦の妻子は、官軍の探索を逃れるため、縁者を頼って七日市(富岡市)へ向って逃れます。しかし、親子4人では逃げ切れないとして、3歳と5歳の童女2人を相間川の淵に沈め、命からがら赤子と二人逃げ延びました。この幼い姉妹を慰霊するため、05年に姉妹観音像が建立されました。

 
P1040410_1  次に向かったのは、小栗上野介忠順終焉の地。1868年(慶応4)閏4月5日、小栗と3人の家臣は捕縛され、何の取り調べもなく翌6日、烏川の水沼川原で斬首されました。石碑には「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」と刻まれています。これは、 1932年(昭和7)に有志によって建てられましたが、皇国史観全盛のその頃、「天皇に背いて罪がないとは」との異論があつたと、説明人が語っていました。

P1040417

 観音山小栗邸跡へは、細い山道を15分くらいかけて登りました。御役御免となつた小栗は、この権田の地に隠棲しました。観音山を切り拓き、田畑と用水路を作り、そしてこの地に屋敷を構えるつもりでした。しかし、完成目前にして処刑され、此処へ住むことは、ありませんでした。

 

P1040424_1 史跡めぐりの最後は、小栗が一時逗留していた東善寺。境内には、露店がいくつか出ており、私たち史跡めぐりのものや近所の人たちで、賑わっていました。小栗の胸像は、1953年に横須賀市から贈られたもの。若々しく利発そうな顔です。苦渋を飲み込んだような『覚悟の人』表紙の肖像画とは、大分様相が違います。

P1040430 東善寺には、小栗父子と家臣たちの墓地があります。午後からは、140回忌法要が営まれており、3人の僧侶が般若心経を唱える中、焼香をすることが出来ました。昨日今日の2日間、小栗上野介忠順とじっくりと付き合いました。そして、私自身の明治維新のイメージが、いくらか膨らんだように感じます。(「小栗まつりパンフレット」を参考にしました)

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