1960年代
私の1960年代は、中学2年から大学を卒業するまでの10年間でした。ただ私の60年代は、「昭和35年中学2年、昭和45年大学卒業」と元号で記憶されています。東京オリンピックも舟木和夫の「高校三年生」も、昭和です。しかし、「60年安保」は1960年となり、ヴェトナム戦争・日韓基本条約・文化大革命そして大学闘争は、まさに60年代として、西暦で記憶されいる。この記憶の腑分けを、器用だと自慢するのか不合理で普遍性に欠けると批判するかは、人それぞれでしょう。ただいえることは、歴史を記憶し続けるには不都合であり、忘却するにはこの上なく便利です。
ここに、歴史を記憶することにこだわり続ける、ひとりのフランス文学者がいます。鈴木道彦さん。彼は、60年代から70年代にかけて、在日朝鮮人の人権運動に深くコミットし、この運動の中で日本人の民族としての責任を模索するとともに、それを越える相互関係の可能性を目指してきました。この運動と思索の回想記が刊行されました。鈴木道彦著『越境のとき 1960年代と在日』(集英社新書07.4.22刊)。「本書は、日本人と在日朝鮮人との境界線を、他者への共感を手掛かりに踏み越えようとした記録であり、知られざる60年代像を浮き彫りにした歴史的証言」(表紙カバー裏の紹介文より)です。鈴木道彦さんは、プルースト『失われた時を求めて』の個人全訳で著名なフランス文学者です。私の書棚には、鈴木・他共訳のフランツ・ファノン『地に呪われたる者』がありました。
鈴木道彦さんは、1954年にフランス政府給費留学生として渡仏し、アルジェリアの独立を支援するフランス人知識人たちの活動を、目の当たりに経験します。そして、自分が同じような状況に直面したとき自分ならどうするか、と逡巡し恐怖を覚えます。「民族責任」という言葉が、鈴木さんをとらえます。「日本人としての「民族責任」を問われる事態に直面したら・・・否応なしに抑圧者に組み込まれる自分はどうしたらよいのか ?」鈴木さんは、このことが、自分の60年代の主要な関心事であり、その後の課題となった、と証言します。そして「日本の侵略史がもたらした在日朝鮮人」の人権支援へと向います。
本書には、3人の在日あるいはそれに近い朝鮮人が登場します。2人の女性の殺人罪で死刑となった小松川事件の李珍宇(イ ジヌ)、ヴェトナム行きを嫌って軍を脱走し日本に亡命を求めてきた金東希(キム ドンフイ)そして2人の暴力団員を殺害し、ダイナマイトとライフル銃をもって寸又峡の温泉宿に籠城し、警察の謝罪を求めた金嬉老(キム ヒロ)。
著者は、これら3人とそれぞれの形で関わり、現実的な役割を果たしつつ、自らの思想を深化させていきます。
李珍宇については、知識人たちによる減刑運動の呼びかけにこたえますが、むしろ、処刑の翌年発行された李珍宇と支援者 朴壽南(パク スナム)の往復書簡集に強い衝撃を受け、これを繰り返し読み続けるなかで、「私は朝鮮人の、死刑囚なのだ」という李の言葉のなかに、日本人の「民族責任」ということを痛切な思いで読み取っていきます。
著者は、ヴェトナム戦争さなかの脱走アメリカ兵の支援組織「イントレピッド4人の会」のメンバーとして活動していました。そして、長崎県の大村収容所に入れられていたもうひとりの脱走兵である金東希の支援に立ち上がります。金は、65年7月に軍を脱走し、亡命のために日本に密入国し、対馬で逮捕されていました。「1935年に済州道で生まれた彼は、小学3年まで皇民化教育を受けて日本語を学んでいたし、彼の長兄、次男、三男は、いずれも働くために小学校卒業ほどの年齢で敗戦前の日本に渡り、その後各地を転々としながら日本で暮らす人たち」でした。「植民地帝国日本が生んだ典型的な崩壊家庭のひとつ」だったのです。「だから彼の行為は、ヴェトナム戦争への批判の表現であると同時に、戦前からの日朝関係の歴史を映し出すもの」でした。しかも彼の亡命願いには、次のように書かれていました。
「私が亡命地を日本に選択したのは勿論地理的条件もありますが特に私は日本国憲法前文ならびに(第9条)戦争の放棄を規定し平和主義を貫こうと努力している日本国に亡命したのであります。」
当時の私は、金東希の亡命については、ヴェトナム反戦デモのなかで知り、彼の解放をシュプレヒコールで叫んだ記憶があります。しかし、この亡命願いについては、このたびの読書ではじめて知りました。以前紹介した姜尚中さんの『愛国の作法』に出てきたアメリカ人の言葉「アメリカの憲法を愛する。だからこの戦争に反対する」を思い出します。
金東希の亡命は日本政府には認められず、独裁政権下の韓国に送還されれば極刑も覚悟しなければならない。著者たちの「金東希を救おう」の署名や請願を通した亡命実現の運動が、全国各地で展開されました。しかし、68年1月26日、突然、北朝鮮へ送り出されました。その後の、彼の地での金東希の消息は、誰も知りません。「ここにもまた、戦後日本の酷薄な対応のために、空しく希望を摘み取られて消えて行った人の運命」がありました。
「これが1960年代、とくに67年から8年にかけての日本を覆っている空気だった。すなわち過去の反省はなおざりにされ、戦争への協力は露骨になっていくが、なおかつそれに抵抗しょうとする少数の人々が懸命な努力を惜しまなかった時代である。・・・・・金嬉老事件は、このような空気の中で起こった。」
本書の後半部は、金嬉老事件とその裁判がテーマです。著者は、金が寸又峡の旅館に籠城した時に、局面打開のため金に呼びかけをした知識人メンバーのひとりでした。68年2月のことです。それから7年間、75年11月最高裁による上告棄却までのあいだ、金嬉老裁判支援のために、中心的な働きをします。「私たちが目指すのは、単なる刑事事件としての被告としての金嬉老を防衛することではなく、彼の主張を生かしながら、法廷を通じて在日朝鮮人のかかえた問題と、日本人の責任を明らかにすることだった」と証言します。
これ以上詳細を報告することは、私の能力を超えます。是非とも読んでいただきたい新書です。60年代、日本の知識人たちが、歴史と真摯に向き合うなかで、現実の政治と社会へ積極的に参加していく姿は、すがすがしく感動的です。こうした知識人の活動と思想的な営為にこそ、先に紹介した韓国からのメッセージ、朴裕河『和解のために』への日本人からの、最も良質な回答があるものと確信します。
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