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2007年8月16日 (木)

戦争を記憶する

 アマゾンに注文していた浜田知明著『よみがえる風景』(求龍堂 07.4.3 刊)が届いたので、早速読んでみました。浜田の銅版画作品は、先月、桐生の大川美術館で初めて観たのですが、その際、彼の戦争体験を描いた『初年兵哀歌』の一連の作品に、強い衝撃を受けました。この画家のことをもっと知りたいと思い、最新刊の上の著作を買い求めたのです。
 戦後、多くの文学者たちが、自らの戦争体験を小説として残しています。軍内部の不正・腐敗と不条理の体験、戦地での残虐無比な加害体験、広島・長崎・沖縄等での被害体験などが、描かれました。戦争を知らない私たちは、こうした戦争文学や原爆文学を読むことによって、戦争について想像し憲法9条の意味を、理解しょうとしてきました。戦後体制とは、こうして戦争体験を引き継ぎ記憶し続けようとする市民一人ひとりの心の在り様によって、支えられてきたものだと思います。
 画家たちもまた、戦争の記憶を作品にして残してくれました。浜田知明もその1人です。

Photo  『初年兵哀歌(風景)』(1952)。最も衝撃的な作品です。著者の言葉を引用します。「竊盗、強盗、強姦、放火、殺人、ミケランジェロの彫刻のように素晴らしいポーズで死んでいた男達、衣を剥ぎ取られ恥部を天に晒け出して、転がされていた女達・・・」。地平線の彼方に、行進していく日本軍が小さく刻まれ、この惨劇がほんのすこし前に起こったことを、教えてくれます。別のページに『戦地でのスケッチ(中原会戦―関家溝にて)』(1941)と題したこの作品の原図だと思われる素描があります。著者の実体験にもとづく作品であることが分かります。

Scaffold  『絞首台』(1954)。「日本においては日本人による戦争責任者の裁判は行われませんでした。そして勝利者による敗戦者の処罰と云う形をとったことが何か割り切れない気持ちとして残った様です。一体、一国の厖大な資源と人命とを消失した責任は誰がとったか。ゆえなくして荒らされた大陸や南方の人々に対する彼等の償いはどうなったのか。」(著者の言葉より)

 浜田知明は、1917年熊本に生まれ、1939年東京美術学校卒業とともに熊本歩兵連隊に入隊し、翌1940年22歳のとき、中国大陸に派遣されました。その後、敗戦により除隊復員するまでの5年間、軍隊生活を経験しました。浜田は、軍隊生活について次のように書いています。「旧日本軍のやり切れなさは、戦場における生命の危険や肉体的な苦痛よりは・・・戦闘行為に必要な制度として設けられた階級の私的な悪用からくる不条理にあった。戦地に一歩足を踏み入れた時、そこで行われていることが大東亜共栄圏建設のための聖戦という美名といかに裏腹なものであり、日本国民の福祉のために行われているはずの戦争が、実は日本を支配しているごく一部の人たちのためのものであるらしいことを私は知った」。戦後、浜田が戦争にこだわり続けた原体験は、此処にあったのだと思います。

 最後に、表紙の帯に書かれた浜田の言葉を引用します。「愛と戦争と人間について」銅版画に刻み続け、彫刻を作り続けてきた浜田知明の、現代の日本人への静かな、しかし毅然としたメッセージです。

戦死したとしても、魂が靖国に行くなどと考えたことはなかった。
死者の魂が棲むのは、彼らが愛した肉親や親しい人たちの心の中であり、その人たちが死者を想うとき、その時だけ彼らはよみがえる。
戦争を知らない世代の一部の人たちから最近勇ましい言葉が聞かれるようになった。私の瞼にはまだ白木の箱に納まり、戦友の腕に抱えられて還ってきた英霊たちの姿が残っているというのに。(熊本日日新聞2004.9.24朝刊より) 

 

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