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2007年8月 5日 (日)

前橋空襲を語る

  地元の「9条の会・結成一周年記念の集い」があり、参加してきました。この会は、大江健三郎さんや井上ひさしさんたちが出された「9条の会アピール」に賛同する地元の人たちが集まって、昨年7月に結成されたものです。
 今日の集まりは、50人余の参加で、ほとんどがシニア層で女性が8割がたでした。集会では、2つの戦争体験が語られました。そのひとつ、元教師のNさんが、「前橋空襲を語る」と題して話をされましたので紹介します。今日8月5日は、前橋空襲62周年の日でした。

 15歳の夏の体験でした。女学生といっても、軍事訓練と勤労奉仕の日々で、勉強はほとんどやりませんでした。勤労奉仕では、来る日も来る日も、風船爆弾の糊付けをしていました。その風船爆弾は、何発かはアメリカ本土に届いて、山火事を起こしたりしたようです。8月5日、丁度今日のように、大変暑い日だった記憶があります。地の底から響いてくるような不気味なサイレンの音は、アメリカ軍のB29の空襲警報でした。自宅にいたNさんは、母親と姉さんとともに、指定された避難場所に向いました。父親と別の姉と知人の小父さんは、家を守るために、自宅に残りました。自宅を守るといってもB29相手ではどうにもならないのですが、竹槍と防空頭巾で闘うといっていた時代ですから、当時は本気でした。避難場所へ向ったNさんたちは、途中、B52の轟音と照明弾のあかりに怖い思いをしました。そして、焼夷弾に道を阻まれましたが、どうにか火を通り越して避難場所へ向いました。焼夷弾の火を避けて、右側に逃れた人たちは、爆弾の直撃をうけて亡くなったということを、後で知りました。夜もふけ空襲も収まりました。見知らぬ家の方の好意でその家に泊めていただき、夜明けとともに前橋へ戻りました。市街は一面焼け野原となり、黒焦げの死体が、いくつも転がっていました。防空壕から半身を出したまま、上半身黒焦げになった女性の死体にも会いました。今でも、その様子が眼に焼きついて離れません。比較的大きな防空壕を掘っていた人たちが、避難をせずに防空壕に残り、そのため壕の中で蒸し焼きになりました。瀬戸物以外の全てが、消失していました。
 幸いNさんは、別れた父親や姉さんと再会しました。
 B29・92機による2時間にわたる前橋空襲は、535名の命を奪い600名の負傷者を出しました。前橋市内の75%が罹災しました。(Nさんの体験談から)

 群馬に移り住んで20年以上になりますが、当地の空襲について体験者の話を聞くのは、今回が初めてでした。この年齢の人たちの多くが、こうした戦争の被害体験を共有されています。今回の話を聞き、改めて戦争体験が語り継がれることの大切さを、強く感じました。そして今後は、被害体験とともに、あるいはそれ以上に情熱を込めて、加害体験について語られる場を作っていくことが、歴史の真実と真摯に向かいあっていくうえで、避けて通れないと思います。

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