幕末の画家『渡辺崋山』
ドナルド・キーン著『渡辺崋山』(新潮社07.3.20刊)を読みました。
渡辺崋山は、江戸時代後期の田原藩士であり儒学を修めた思想家であり、そして幕末期を代表する画家でした。長崎・出島のオランダ商館という、針の穴のようなチャネルを通して入ってくるヨーロッパの学問や芸術を貪るように学び、当代一の開明派と目されるようになります。まずヨーロッパの絵画の手法、遠近法や写実主義を学び、特に肖像画において比類のない画期的な作品を残しました。一方、蘭学を学ぶなかで、ヨーロッパ列強の日本への野心を知り、沿岸防備についての高い見識を持つに至りました。これは、田原藩家老としての崋山の任務でもありました。
幕末の混乱期、蘭学への弾圧が厳しくなり、崋山は逮捕され田原蟄居を命ぜられます。そして、蟄居中に絵を描き売買したことが露見し、藩主に責めが及ぶこと危惧して、自刃しました。本書は「明治維新という一大革命の前夜、その文化状況の危機を象徴するかのような崋山の生涯・・・を、等身大に活写」(表紙帯から引用)しています。
まず本書は、画家渡辺崋山の評伝であり、崋山作品の社会的・歴史的な背景とその魅力を余すところなく紹介する、絵画の書です。
本扉と目次の間に、27枚の口絵が掲載されており、文中、これらの作品について詳論されます。例えば、口絵2『佐藤一斎像』(1821)。「肖像画の傑作・・・日本美術史に先例がない・・・立体感ある力強い作品・・・これ(完成作品)に先立って描かれた(11枚もの)画稿の末に初めて完成された・・・完成稿は、佐藤一斎の風貌のみならず、儒教に対する信念の強さを伝えることに最も成功している。・・・崋山がヨーロッパから陰影法を取り入れるまで、肖像画は長い間にわたって彫像の特徴だった目鼻立ちを形作る立体感や深みを備えるに至らなかった・・・崋山が望んでいたのは、肖像画が対象の目鼻立ちの写実的な描写であると同時に、人物の個性の再現でもあることだった」と結論付けています。
カバーと表紙の装画および本頁に載せられている『一掃百態』(1818)も、強く惹かれます。著者は「徳川幕府が衰退しつつあつた江戸の人々の日々の生活そのものを、かくも生き生きと効果的に描き出した作品は他に思い当たらない・・・人々がぎっしり詰まったどのページも・・・作品全部が大きな喜びである」と絶賛します。著者ドナルド・キーンは、まず何よりも、崋山の絵画に強く魅かれたのです。
次に本書は、思想家崋山の蘭学研究を通して見た、鎖国下にある幕末期日本のヨーロッパ文明受容についての歴史書です。著者は、鎖国政策は外国からの侵略を防ぐために必要なことだったとし、それによって築かれた永続的な平和は繁栄を生み出し、芸術は全盛を極めたと、高く評価します。しかし時代は、西洋の影響を無視できなくしつつありました。医学研究が最初の裂け目を入れます。始めて死体解剖(1754)をした医師は、「自分が見たものを重視し偏見なくものを見る態度を維持すべき」と主張し、その後の医学会に強い影響を与えました。そして杉田玄白・前野良沢によるオランダ解剖書の翻訳(解体新書1774)から蘭学が始まります。この蘭学は、儒教の権威に挑戦することとなり、それは幕府の批判を意味し、死罪に値する危険なことでした。オランダ語に習熟した高野長英はシーボルトのもとで医学を学び、江戸に戻って医者となりますが、西洋医学への無理解と恩師シーボルトとの関係から、患者は少なくひどい貧乏でした。日本地図を国外へ持ち出そうとしたシーボルト事件(1828)のためです。長英は、崋山に頼まれてオランダ語文献の翻訳をします。崋山は西洋を学び、長英は何とか暮らしができるようになります。貧乏藩士の西洋文明を知りたいとの強い欲求が感じられます。
「崋山が西洋にのめりこんでいく」証拠として、「ビュルゲル対談図」(1826)があげられます。シーボルトの助手だったビュンゲルを囲んで数人の日本人が座っています。このビュンゲルからの「北方領土に対するロシアの襲撃が差し迫ってい」るとの情報は、「すでに外国の科学や美術に対する関心にも増して崋山を蘭学研究へと駆り立て」ました。崋山33歳のときです。医師小関三英との出会い(1831)は、その豊富な西洋の知識で崋山を圧倒します。三英は西洋絵画について語ります。「ヨーロッパの画家は解剖学にも通じ、鳥や動物を解剖し、植物や樹木を分解して、その細部を最小単位になるまで明らかにする」と。国宝口絵15『鷹見泉石像』(1837)に画かれた泉石は、蘭学に終始傾倒していた身分の高い武士でした。ヤン・ヘンドリック・ダップルというオランダ名を持ち、望遠鏡を手に入れ天文学に夢中になったり羅針盤を購入して測量を学んだ趣味の人でした。歯を見せてにゃっと笑った肖像画口絵16『笑顔武士像稿』(1837)のモデルは泉石ではないかと、著者は推定します。崋山の絵画のお客にも、蘭学傾倒者がいたのです。オランダ使節ニーマンの会見録『鴃舌(げきぜつ)小記』(1838?)に、崋山はニーマンの口を借り慎重に幕藩体制を批判をします。「某国のごとく自分が一番優れていると思って外国を軽侮し、自ら耳目を閉ざして井の中の蛙となるような弊風はありません」。
漂流民を乗せて江戸湾に姿を見せたイギリス船に対して、幕府は砲撃して追い払いました(モリソン号事件1837)。崋山は、戦争誘発を避け外敵からの防備を整えることを念頭に、「異国船打払令」に対して激怒し、長英とともに幕府にその破棄を働きかけます。崋山は、西洋文明の魅力を十分に知るとともに、ヨーロッパ諸国の侵略行為についても熟知していたのです。
こうした崋山や蘭学者に対し、これを憎む正統儒学の側から、陰湿な反撃が加えられます。崋山らは外国の学問を盲信し外国渡航を企てたとして告発され、崋山は逮捕、長英は自首、そして小関三英は逮捕をまたず自殺しました(蛮社の獄1839)。牢獄を出た崋山には、田原蟄居の命が下りました。
本書は、美術書であり歴史書であると同時に、何よりも「人間・渡辺崋山」の研究書です。本書には、崋山についての興味深いエピソードが多く語られていますが、そのなかの2つを紹介します。
崋山の紀行文『游相日記』は、田原藩主の庶子三宅友信(崋山のパトロン)の生母探索の旅の記録です。友信の生母お銀との対面の場面は感動的ですが、面白いのは帰路の宿の場面です。崋山は宿の主人に「私は・・・絵など画く変わった男である。この土地の同好の士がいれば、招いて一夜を語り明かしたい・・・酒肴は私が持つ」と頼み、6人の客を迎えます。寺子屋の師匠、医師とその娘、長唄自慢の提灯屋、三味線上手な目薬屋、そして宿の主人。酒宴が始まり、ご馳走と酒が運ばれてきます。三味線が弾かれ、長唄が歌われ、立ち上がって踊り出しました。医師との会話も記録されています。土地の大名の過酷な振る舞いや堕落振り、そして領民の恨み怒りについて述べています。崋山は、この医師の話に、注意深く耳を傾けました。「帯刀した武士が・・・身分様々な人々と打ち解けるのは、きわめて珍しいこと」でした。翌日の晩も、再び酒宴が始まります。昨晩の客に加え、絵師と坊さんが加わり、宴たけなわのうちに崋山は寝込んでしまいます。「『游相日記』には、ほかの史料には見つけ難い天保年間の日本の市民社会が活写」されています。と同時に、人間渡辺崋山を語るために欠かすことの出来ないエピソードだと思います。にったり笑う武士を描いたり江戸庶民の風俗を描く崋山も魅力的ですが、こうした酒宴の席にいる崋山には、惚れ込んでしまいます。
もう一つのエピソードは、崋山の別の面を鋭く際立たせます。
田原蟄居を命ぜられた崋山は本気で、再び絵筆を取ることにしました。用心のため、作品の制作年を実際に描いた年よりさかのぼって記載しました。しかし、幕府用人が調査に来るという風聞に動揺し、田原藩主にその責めが及ぶことを恐れ、自決をして罪を償うことを決心します。遺書には、「主君にご迷惑をおかけし・・・母上には申し訳なく・・・不忠不孝の名が後世に残り」とあります。そして、墓標には「不忠不孝姓名(渡辺登)墓」と書くことを願っています。
「崋山は、母屋に近い納屋で切腹しました。・・・崋山は正座し、脇差を抜いた。腹に突き刺し、横一文字に引いた。・・・切腹の苦悶を打ち切るために首を刎ねる介錯人が必要だったが、いなかった。崋山は自ら脇差で首を刺し貫き、最後のあえぎとともに前に倒れた。崋山の姿が見えないことにうろたえた母は、納屋に走った。・・・母は、血の海の中にいる崋山を見つけた。亡骸を見て、とっさに喉を突いて死んだと思った母は、こう叫んだ。『児何為(す)れぞ腹を割かずして咽を刺し婦女子の所為をなして相果てしぞ』。しかし抱き起こして、よく見ると、まず腹を切り、衣服を正したあと咽を突いたことがわかった。哀しげな顔に笑みを含み、母は言った。『真に我子なり』」。口絵22『渡辺栄像』(1840)は、崋山の母の肖像画です。この肖像画が描かれた1年後に、哀しげな顔に笑みを浮かべて、母は言ったのでした。
西洋の文明と政治を学び幕末期有数の開明派であった渡辺崋山は生涯、主君への忠と親への孝を貫徹した儒学の徒であり幕藩体制に忠実な藩士でもありました。この相矛盾する崋山の性格は、幕末から明治維新にかけての日本の国のアンビバレントな性格を如実に現わしているといえます。著者ドナルド・キーンの視点も、このあたりにあるのだと思います。
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