渡辺崋山に誘われて
先週の日曜日、渥美半島にある田原市に、渡辺崋山ゆかりの地である田原城跡と池ノ原幽居跡を訪ねました。前者は崋山が家老職を勤めた田原藩の城跡であり、そして後者は崋山蟄居の地です。勿論、先日読み終えたドナルド・キーン著『渡辺崋山』に誘われての旅です。
豊橋駅で新幹線から豊橋鉄道渥美線に乗り換え、三河田原へ向かいました。愛知県には名古屋に2年住みましたが、渥美半島に足を伸ばすのは今回が初めてです。車窓から見える鮮やかな赤レンガ色の畑は珍しく、路地キャベツが豊かに育っていました。鉄道終点の三河田原で下車、15分ほど歩いたところに田原城跡がありました。
正面の桜門から中に入り坂を少し登ったあたりは、江戸時代の風情がそのまま残り、ちょっと良い感じ。どっしりした二の丸櫓の北側に木の門があり、その奥に田原市博物館があります。門柱や外柵の黒と建物壁の白とのコントラストとそれら構造物の水平と垂直のラインが、簡明で美しい空間を形作っています。博物館に入って最初の展示室は、崋山の生涯を各種史料で紹介していました。キーン著『渡辺崋山』のおさらいができました。企画展示室2という部屋では、『渡辺崋山の描く肖像画』展が開かれていました。キーンさんの解説を思い出しつつ、国宝「鷹見泉石像」(複製)や重文「佐藤一斎像」(複製)を、じっくりと鑑賞しました。15作品あった肖像画のなかで異彩を放っていたのは、「笑顔武士像稿」(複製)と「ヒポクラテス像」(複製)の2作品です。前者は、立派な武士がにっと笑っています。すこし気持ちがわるい。後者は、古代ギリシャの医学の祖。厳しい鎖国下の幕末に、ギリシャの哲人を尊敬の対象として描いていた画家がいたことに、驚きます。
「一掃百態図」(複製)は江戸時代の風俗画で、町民や下級武士たちのあからさまな様子が窺(うかが)えて、おもしろい。写真は、博物館で買い求めた「一掃百態図」(複製)綴(とじ)本の寺子屋の様子を描いたページ。まともに勉強しているのは、先生の前に座っている3人だけ。あとの連中は、つかみ合いの喧嘩をしたり落書きをしたり大声をあげたり居睡りをしたり筆をくわえたりと、思い思いに寺子屋を楽しんでいます。
1時間ほど博物館ですごした後、池ノ原幽居跡を訪ねました。崋山は、蛮社の獄で捕らえられ、国許での蟄居を命ぜられます。そして、生涯の最後の1年間をこの地で過ごし、ここに自ら果てました。
家族とともに晩年を過ごした自宅の前には、崋山像がありました。崋山は、何かをじっと見つめています。当代随一の西洋文明と世界情勢の理解者であつた崋山は、日本の現状(鎖国)と未来(開国)について、最も客観的かつ相対的に認識していたはずです。弟子宛の遺書に「数年之後一変・・・」(数年後に大きな変化が起これば・・・)と維新を予言するような文言を遺しています。
今回の旅のあいだ、どうしても解けない疑問が、ひとつありました。戦前、小学校の修身教科書に崋山が登場し、忠孝のひととして尊敬(を強要)されていたことです。彼の画風にも明らかなように、崋山は、写実(現実)と個性を何よりも重視していました。戦前教育は、忠孝の教えを通して、現実と個性を忘却させ、国家に命を捧げる人格を育てることを最大の課題としていました。崋山の思想と修身のそれとは、相矛盾するものと思います。では何故、国家主義者たちは、渡辺崋山を利用しょうとしたのか?今後の宿題として置いておきます。
コメント