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2007年9月 1日 (土)

映画『ツォツィ』

 ギャヴィン・フッド監督作品『ツォツィ』を観ました。
 高層ビルが林立する大都会と無毛の原野とのあいだに、貧しい人々の住むスラム街が広がっています。この街は、人々の暮らしの場であると同時に、暴力と犯罪の渦巻く場でした。主人公ツォツィは、こうした街に住むチンピラ仲間のボスです。子分は3人。インテリ崩れの年長の男、切れやすくカミソリのような若造、そして人のよさそうな肥満の男。
 4人は地下鉄の中で、恰幅のいい黒人男性を襲い、財布を奪います。声を出しそうになった男性を、仲間の一人が、アイスピックで刺し殺します。スラムへ戻り、はじめての殺人に、仲間は動揺します。「品位という言葉を知っているか?お前の本当の名前は何だ?お前は捨て犬か?」暴力を嫌うインテリ崩れから執拗になじられたツォツィは、男を殴りつけ、血まみれにします。
 郊外にある豪邸の前に立つツォツィ。裕福な黒人女性の乗るBMWをカージャックします。奪われた車に追いすがる女性を、ピストルで撃つ抜きます。運転のできないツォツィは、逃走途中で道路標識に衝突し車を止めました。車中のものを紙袋に入れて車から離れようとした時、赤ん坊の泣き声に気づきました。そのまま立ち去ろうとしながら、瞬時ためらい、車に戻って赤ん坊を抱き上げ、紙袋に入れて連れ帰りました。

 こうした展開の前半は、主人公の顔の表情は終始、すさんで険しく、暴力と犯罪の連続に、目を背けたくなります。チンピラたちに、激しい嫌悪感をすら抱きました。絶望感ばかりが強調される映像に、いささかウンザリもしました。 

 スラム街にあるバラックに戻ったツォツィは、泣き止まない赤ん坊に、手を焼きます。しかし、缶詰のコンデンスミルクを飲ませたり、新聞紙をオムツ替わりにうんちの世話をしたりして、やむなく赤ん坊と向き合っていきます。育児への無知と不器用さに、見ているものをハラハラさせます。そして、すさんだ険しい表情に、小さな変化が現われだします。小さな命をケアするものの表情なのでしょうか。
 外出先から帰ったツォツィの見た赤ん坊は、口の周りのミルクにたかった蟻の群れでした(観客の私も心底ぞっーとしました)。そして、スラム街で立ち働く、赤ん坊を抱いた若い女性に目をつけます。この女性の後をつけ家に押し入り、「自分の」赤ん坊にオッパイをやることを、ピストルを突きつけて強要します。この若い母親は、夫を殺されたばかりの犯罪被害者であり、女手ひとつで赤ん坊を育てています。彼女は、恐怖に怯えつつ、下の世話をしオッパイを与えます。母親は、赤ん坊にオッパイを与えながら、徐々に怯えの表情は薄らいでゆき、やさしくやわらかい子守唄が、その口からこぼれてきます。ツォツィは、この様子をじっと見入っています。
 ツォツィとこの若い母親との会話のなかに、思わず胸の熱くなる場面がありました。彼女は、裁縫で生活費を賄っていますが、手作りのベッドメリー(色ガラスやブリキ板の破片を吊るしたもの)も売ってます。「割れたガラスをとりつけただけで金をとるのか?」と問うツォツィに対して、彼女は答えます。「だって、光と色があるんだもの」。何気ない会話の一片ですが、この若い母親のけな気さと小さく輝くような感性に、ほろっとしました。
 ツォツィの子供のころの回想場面が、挿入されます。
 ベットに横たわる母親。エイズに罹っていることを、想起させます。泣きながら手招きで幼い息子を呼び寄せる母親と、病気がうつるといって拒絶させる、飲んだくれの父親。父親に向って吠え立てる犬は、父親によって蹴り飛ばされ、背骨をくだかれます。「お前は捨て犬か?」の侮辱に怒り狂った姿が、思い返されます。この回想場面には、何の説明もありません。しかし、いろんなことが想像されます。父親の失業とアルコール中毒、母親の売春とエイズ感染、そしてツォツィの家出、ホームレス、暴力と犯罪。
 「俺の子」のために稼ぐことを決意します。
 いつものチンピラ仲間とともに、「俺の子」の豪邸に侵入します。部屋中を物色する3人。そこに、赤ん坊の父親が帰宅し、捕縛されます。ツォツィは、「俺の子」の部屋に入り、親子3人が幸せに暮していた様子を垣間見ることになります。そして、哺乳瓶と粉ミルクをバッグにいれていると、突然大きく鳴り響く警報機の音響。赤ん坊の父親が、警報機のボタンを押したのです。冷血な仲間が、この父親にピストルを構えた瞬間、血を噴きだして倒れました。ツォツィが、この仲間を撃ったのです。
 ツォツィは、若い母親のところへ戻ってきます。彼女はすでに、ニュースで赤ん坊が誘拐されたことを知っていました。盗んできた哺乳瓶とミルク缶をみせるツォツィに、彼女は威厳を込めて言います。「赤ん坊を返してあげて。あなたは、母親にはなれないのよ。」ツォツィは、自分で赤ん坊を返しに行く決心をします。「もしも赤ん坊を返したら、またここに来ていいか?」と問うツォツィに、彼女は、ゆっくりとやさしく、そして小さく眼で頷きました。赦しによる再生が、強く暗示されます・・・・・(結末の最終場面は、割愛します)。

 南アフリカ、ヨハネスブルクを舞台にした映画だ、という知識だけをもって観ました。そして、南アフリカについてもヨハネスブルクについても、ニュースで知った断片的な知識以外、ほとんど知りません。この映画に出てくる、摩天楼の建ち並ぶヨハネスブルクには驚きました。アパルトヘイトから解放された社会に、依然としてある絶望的なまでの貧富の格差。ただ、黒人のなかに富裕層が生まれ、黒人の間での貧富の格差も際立っています。貧困に影を落とすエイズの影響も、大変なショックです。
 「ツォツィ」という言葉は、ギャングやチンピラを意味するスラングだということです。
  
  
 
 

 

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