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2007年11月24日 (土)

もうひとつの可能な世界

 アメリカ社会学協会総会でのナオミ・クラインの講演録『もうひとつの可能な世界―弾圧から蘇る希望』(「世界」07.12号)を読みました。ナオミ・クラインは、70年カナダ生まれのジャーナリストで、グローバリゼーション反対運動の活動家として知られています。この講演では、「もうひとつの世界」を希求する運動が、9.11事件の影響によって粉砕され、その後ますます新自由主義―自由市場、民営化、規制緩和が強圧的に進められていく様子が、話されます。そして、かつて第三の道が閉ざされてきた歴史を振り返り、この歴史を理解することのなかに、希望を見いだそうとしています。
 反グローバル化運動の立脚点が、わかりやすくしかも力強く打ち出された講演録です。小泉・安倍構造改革政権によって疲弊した日本の現状をみるとき、ナオミ・クラインの講演は、微かではありますが、希望の光が射すように感じました。

  01年1月、ブラジルのポルト・アレグレで開催された第一回世界社会フォーラムは、「誇りに満ちた感嘆符」のついた「もうひとつの世界は可能だ !」とのスローガンを掲げました。北アメリカからの数少ない参加者の一人であった著者は、この世界社会フォーラムに「巻き起こる強い風に胸を打たれて、気がつくと深く息を吸い込んでいた。心が解放されたような思いがしました」と感想を述べています。しかし、それから6年半。「可能性に向かって開かれていた窓」は、閉ざされてしまいました。新しい選択を求めるときには、「もうひとつの世界は可能でしょうか?」と何かを恥じるように、ためらいがちに尋ねます。もうひとつの世界が「可能だ !」から「可能か?」への後退は、何によってもたらされたのでしょうか。「もうひとつの世界」に近づけないのは何故なのでしょうか。この問い掛けが、ナオミ・クラインのこの講演の主題です。
 「善き人びとは一切の信念を失い、悪しき者どもは炎と燃える情熱を持つ」とイェイツの詩の一節を引用し、「もうひとつの世界」を求める人びとに問い掛けます。「カザフスタンの石油を手に入れたいディック・チェイニーよりも、もっと強い熱意で、気候変動をくい止めたいと思いますか。エスティ・ローダーの次期ニューフェイスになりたがるパリス・ヒルトンよりも、もっと大きな情熱を傾けて、万人を守る健康保険制度を求めますか」。彼女は、運動に参加する人々の、強い信念の欠如を指摘します。
 01年、世界経済フォーラム(ダボス会議)に対抗して開催された世界社会フォーラムは、「もうひとつの世界」の可能性に向かって開かれた窓でした。しかし同年9月11日、この窓は、アメリカで閉ざされました。「世界中で沸き上がっていたグローバル公正運動が突きつける議論を、あっけなく封じてしまった」のです。
 ブッシュ政権は、「安全保障と反テロ戦争の他に重要なものなどない」といいながら、「事件以前と同じ資本主義の過激なプロジェクトを、猛烈な勢いで推し進めて」いきます。また、「9.11事件のショックが消えない国民の心理を操作して、政府を空洞化させるという過激な構想を実践します」。戦争の遂行、戦後復興、災害時の救援活動など「本来行政がするべき任務を、営利事業として民間に次々と委託」していきました。つまり「反テロ戦争は、最初から民間企業によって運営されるように計画された営利事業」でした。自由市場と民営化が、政府の中枢機関にまで及びます。反テロ戦争に反対する者に対しては、「テロリストの味方するつもりかと非難」するのです。こうして、「もうひとつの可能な世界が私たちから遠ざかってゆきました」。
  ナオミ・クラインは、第三の道が閉ざされた歴史を振り返ります。
 1973年9月11日、チリ。70年、自由選挙によってできた社会主義のアジェンデ政権が、軍事クーデターによって崩壊します。ニクソン政権によって、第三の道は粉砕されました。
 1989年6月4日、ポーランド。自主管理労組「連帯」の勝利。しかし「連帯」の理想は実現せず、新自由主義者によるショック療法が採用され、「経済改革は大成功」と評価される反面、所得格差が拡大し、若年労働者の失業率は上がり最低ライン以下の貧困生活者が増えました。
 同年・月・日、北京。天安門広場に戦車部隊が侵攻、虐殺の日となりました。鄧小平政権による経済改革により、生活水準が低下し、労働者の権利も奪われました。人びとは街頭に出て「経済モデルの変革は自分達が管理して行いたい。私たちの意見を聞け」と訴えたのです。
 1994年、南アフリカ共和国。アフリカ民族会議(ANC)が総選挙で大勝利を収め、政権を手にしました。ANCは、「鉱山と銀行と独占産業を国営化すること」によって「南アフリカの富は伝統的に継承される国家の遺産であり、人民に返還されなければならない」と宣言しました。彼女は、この勝利を「もっとも希望に溢れた日々のひとつ」として振り返っています。
 しかし「もうひとつの世界を描いた青写真は、引き裂かれ、投げ捨てられました。その理想を人びとが支持したから、実践されたとき成果を上げたから、粉砕されたのです。もうひとつの世界は、生活の基盤を保証された何百万もの人びとが、人間としての尊厳を持って生きてゆくことができる世界です。だからこそ大きな支持を得ました。もうひとつの世界は、富める人びとの利益を制限する世界です。だから彼らは手を下して、その世界を破壊してみせた。私たちは理想の戦いで敗れたことは一度もありません。繰り返し仕掛けられた汚い戦争に敗れただけです。この歴史を理解することが、失われた自身を取り戻す第一歩となります。それが私たちの心に大切な灯をともし、消えかけていた情熱を炎と燃やすでしょう。」

 

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