『楽園への道』
「ここは楽園ですか」「いいえ次の角ですよ」。子供たちが集まっての鬼ごっこ。主人公がフランスとペルーとポリネシアで見かけた子供たちの遊び―そこには「楽園に辿りつきたい」という世界共通の願いが込められています。ペルー生まれの作家バルガス・リョサ著『楽園への道』 (河出書房新社 08.1刊、池澤夏樹編世界文学全集第2巻)は、多くの人たちがユートピアを追い求めた19世紀に生きた、時代の反逆者にして先駆者であった二人の生涯を追った歴史小説です。「スカートをはいた扇動者」といわれたフローラ・トリスタン(1803-1844)と「芸術の殉教者」ポール・ゴーギャン(1848‐1903)。二人の飽くことのない凄まじいばかりの「楽園」追求に圧倒されます。前者が、労働者と女性の連帯による人間の解放を、そして後者は、美の価値観の西洋から原始への転換を、追い求めました。二人は、祖母と孫の間柄でした。
ペルーは、フローラを扇動者へ変え、ポールに「楽園」の原型をイメージさせ、そして作家バルガス・リョサを育みました。三者の共有世界は、他ならぬラテン・アメリカのペルーでした。
著者は、1844年4月から11月までの7ヶ月間の、労働組合の組織化のためフランス各地を訪ね歩くフローラを追いかけます。この間に、彼女の過去の出来事が回想され、ひとりの貧しい娘がスカートをはいた扇動者に変わっていく姿を描きます。41歳で亡くなったフローラの短い人生を象徴するのは、彼女を絶えず襲う膀胱と子宮の痛み、そして心臓の近くに食い込んだ銃弾でした。原因は、夫であった版画家のアンドレ・シャザル。ペルー人の父親の死後、貧困な生活の中で母親から無理強いされた結婚。「夫と暮らしたあのぞっとする4年間に、一度として愛の営みをしたことがなかった。毎晩、交尾した。いや、交尾させられたのだ」。この下腹部の痛みは、結婚以来続いています。胸の銃弾は、フローラが裕福な叔父のいるペルー(夫からの逃亡先)からフランスに戻り、自らの半生を書いた自伝で成功を収めたときシャザルに撃たれ、手術後心臓近くに残ったものです。
フローラは、結婚以来セックスに嫌悪を抱き、一度もひとを愛したことがありません。また、隷属的な結婚制度に疑問を持ち、女性の解放がフローラの大きなテーマとなります。幾度か心魅かれる男性と出会いますが、決して結ばれることはありませんでした。著作の成功によりフローラは有名人となり、パリの社交界に足を踏み入れます。そこでゴート人風の目鼻立ちの美女と出会い、熱烈な恋をします。「郊外の別荘で、二人は初めてセックスをした。・・・困惑し不安をいだいていた最初のあの頃。彼女はおまえに自分が若く美しく魅力的で、女であることを感じさせてくれた。オランピアはセックスに対し恐れや嫌悪感を持つ理由はないこと、肉体の悦びのなかに欲望に身を委ねて愛撫の官能に没頭することは、たとえそれが数時間でも数分でも、生を強く生きる方法だと、おまえに教えてくれた。なんて魅力的なエゴイズムなんだろうね、フロリータ。対等な二人のあいだに、暴力による威嚇のない快感、肉体の悦びがあると知ったことは、自分がより完璧で、より自由な女であることをおまえに感じさせてくれた」(二人称でのよび掛け文は、この小説の全編で踏襲されます)。シャザルとのセックスを汚物のように書いた著者は、オランピアとのホモ・セクシュアルのシーンを、慈愛と賛美の言葉で描きます。フローラの短い人生において、このときほど人を愛し楽しく過ごした時はありません。そして、読者である私は、フローラとオランピアのセックスシーンに、何かほっとしたものを感じました。
フローラのロンドンへの旅は、扇動者である彼女にとっては、大変有益なものでした。「女性を解放して男性と同等の自由を獲得する唯一の方法は、もう一方の犠牲者であり、被搾取者であり、人類の大多数を占めている労働者と連帯して闘争すること」を学んだのは、イギリスの労働者からでした。チャーチスト運動の会議にでたり運動家たちと会い、多くのこと学びます。一方、売春街や刑務所・精神病院・貧民街を訪ねました。マルクスやエンゲルスの描いた怪物都市ロンドンの労働者や女性の悲惨な姿を、フローラも見たのです。
マルクスとセーヌ左岸の印刷屋で出会う場面は、大変面白い。二人とも相手が誰であるのかを知りません。印刷の順番を巡って二人が言い争います。「いま来たばかりのこのご婦人のちゃらちゃらした文学などを優先するのか」と怒るマルクス。「ちゃらちゃらした文学、とおっしゃいましたか、あなた・・・覚えておいていただきたいのですが、わたしの『労働者の団結』という本で、人間の歴史を変えるかもしれないものなのよ。どういう正当性があってあなたは去勢された鶏みたいにキーキー叫びにきてるの」と言い返すフローラ。『共産党宣言』(1848)発表の5年前のことです。著者バルガス・リョサは、フローラ・トリスタンの女性と労働者解放に果たそうとした役割はマルクスと対等だ、と言いたかったのかも知れません。
1844年11月14日臨終。「41歳だったのに老女のようだった。・・・おまえの巻き毛を二房切り取った。一房は(生涯の親友)エレオノール・ブランのため、もう一房はアリーヌのために」
アリーヌは、シャザルとの間のフローラの3番目の子供。アリーヌは、シャザルに3度誘拐され、強姦されます。フローラはシャザルを告訴し、その争いの中で、シャザルに撃たれたのです。不幸な娘アリーヌは、ジャーナリストのクロヴィス・ゴーギャンと結婚し、ポールを生みます。1848年の革命後、クロヴィスは家族を伴って、新天地を求めてペルーに向かいます。しかし旅の途中で病死し、アリーヌは二人の子供とともにペルーへ。ペルーでは、裕福な祖父の弟に歓迎され、アリーヌも子供たちも、生まれて初めて幸福な日々を送ります。ポール・ゴーギャンが、南の地に「楽園」をイメージするのは、このときの体験によるものです。
ポール・ゴーギャンは1891年6月、タヒチに到着します。43歳のときです。93年に一度フランスへ帰りますが、95年再びタヒチへと戻ります。1901年9月にタヒチから更に「未開」の地マルキーズ諸島に移り、03年に55歳で亡くなるまでその地に住み続けました。著者は、ゴーギャン作品を題材にしつつタヒチとマルキーズでの彼の12年間を描きますが、フローラの場合と同様、ゴーギャンにフランス時代を回想させ、何故ヨーロッパを捨てタヒチへ行き、西洋美術を捨てて原始へ向かったかの謎に迫ります。
フローラの短い生涯を悩ませ続けたのが下腹部の痛みと胸の金属片だつたとしたら、ゴーギャンのそれは、「人前で口にするのが憚れる病気」の進行でした。ただ、フローラがそのためにセックスを嫌悪し男性を回避し続けたのに対して、ゴーギャンはセックスにのめり込み、それをエネルギーに創作活動を続けました。
タヒチでの最初の妻テハッアマナをモデルに描いたのが『マナオ・トゥパパウ(死霊がみている)』。裸でうつ伏せになったハッアマナがトゥパパウ(死霊)に怯えている。ヨーロッパがなくしてしまった幻想的な経験に、ゴーギャンは興奮に震えます。
『パペ・モエ(神秘の水)』。樵の少年と彫刻の素材を探しに、山に入っていきます。冷たい水の中に入り、少年が身体を寄せてきます。「青碧色の空間、鳥のさえずりもなく、聞こえるのは岩に当たるせせらぎの音だけで、静寂と安らかさ、解放感が、ここはまさしく地上の楽園にちがいないとポールに思わせた。またもやペニスが硬くなって、かつてないほどの欲望に気が遠くなりそうだった」。ゴーギャンは、マフー(両性具有者)に、偉大な異教文明ならではの自然さを感じます。著者バルガス・リョサのホモ・セクシャルなシーンは、ここでも美しい。
ゴーギャンは主張します。「美術は、肌の白い均整の取れた男女というギリシャ人によって作り出された西洋の美の原型から、不均衡で非対称、原始民族の大胆な美意識の価値観に取って代わられるべきで、ヨーロッパに比べると原始民族たちの美の原型は、より独創的で多様性に富んでいて猥雑である。・・・原始芸術では、美術は宗教とは切り離すことはできず、食べることや飾ること、歌うこと、セックスをすることと同様に、日常生活の一部を形成している」と。
盲目の老婆のエピソードは、ゴーギャンの立ち居場所を示唆して、興味深い。ゴーギャン自身も、極度に視力を衰えさせています。ボロを身にまとった老婆が、どこからともなく現われます。杖で左右をせわしく叩きながら、ゴーギャンのもとにきました。「ポールが口を開く前に老婆は彼の気配を感じて手を上げ、ポールの裸の胸にさわった。老婆はゆっくりと両腕、両肩、臍へと手でさぐっていった。それからポールのパレオを開いて、腹をなで、睾丸とペニスをつかんだ。検査をしているかのように、彼女はつかんだまま考えていた。それから表情を曇らせると、彼女は胸糞が悪そうに叫んだ。「ポパアか」・・・マオリの人々はヨーロッパ人の男をそう呼ぶのだった。」ポリネシアに「楽園」を夢見てきたゴーギャンの、挫折の場面です。セックスによって原始にアプローチし、そしてセックスによって原始から挫折するゴーギャン。1903年、ひどい悪臭を漂わせながら、死んでいきました。そして、最も忌み嫌い反抗し続けたカトリック司教の決めた場所に埋葬されました。墓碑銘としての司教の手紙には、次のように書かれていました。「この島において最近、記すに足ることはひとつ、ポール・ゴーギャンという男の突然の死だが、彼は評判高い芸術家であったが神の敵であり、そしてこの地における品位あるものことごとくの敵であった」
フローラ・トリスタンとポール・ゴーギャン。とてつもなく大きな二人の人生を追いながら、両者をほとんど交差させることなく、しかし、祖母と孫という関係の不思議な縁を見失うこともなく、19世紀の100年間を見事に描ききった、歴史的な大河小説だと思います。フィクションとノン・フィクションを、経糸(たていと)と緯糸(ぬきいと)として見事に織り込んだ、美しい綾織物のようです。
残された本書の楽しみは、ゴーギャンの画集を横において、各作品のバルガス・リョサによる解読を読みすすめていくことです。絵画は、感性と同時に知性も重要であることを、この本を読みながら改めて感じました。
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