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2008年3月 3日 (月)

『存在の耐えられない軽さ』

Photo 「永遠の回帰というのは謎めいた思想だから、ニーチェはこの思想によって多くの哲学者たちを困惑させた」という冒頭文で始まる小説、ミラン・クンデラ著『存在の耐えられない軽さ』(河出書房新社 08.2刊、池澤夏樹編世界文学全集第3巻)は、その題名からして、読者の私を、困惑させます。これは、「存在」をテーマとした哲学小説なのでしょうか ? そう。しかし、四人の男女の織りなす、エロチックな恋愛小説でもあります。

 外科医トマーシュは、妻との離婚のあと女性への恐怖と欲望との間で、エロス的友情と称して多くの愛人たちとの関係を楽しんでいました。そこへ、ボヘミアの小さな町で知り合った娘テレザが訪ねてきます。「その日に二人は性交した」と素っ気無い。彼は、テレザは「籠に入れられ、河の流れに放りだされた子供」だと思い、エジプトのファラオの娘が幼いモーゼを救い出したように、テレザを救います。二人は結婚します。しかし、彼の愛人たちとの関係は続き、一夫多妻的な生活に、テレザの挙動は乱暴に、支離滅裂になっていきます。
 1968年8月20日深夜、ソ連軍率いるワルシャワ条約機構軍がチェコ・スロヴァキアに侵攻し、全土を占領しました。「人間の顔をした社会主義」を求めた「プラハの春」が、ソ連とその同盟国によって、弾圧されたのでした。トマーシュは、雑誌に寄稿した体制批判の文章によって自己批判を迫られますが、拒否します。フォトグラファーとなったテレザは、占領されたプラハの街を撮影し、外国のジャーナリストに配ります。トマーシュの身を案じたスイスの院長にすすめられ、二人はチューリッヒへ亡命します。しかし、テレザはチューリッヒを去って、占領下のプラハへ。トマーシュは決断を迫られます。チューリッヒに留まるか、それともプラハへ戻るか。当初は、テレザから解放された「存在の心地よい軽さ」を感じていたが、ついに「Es muss sein.(こうでなければならない)」と帰国を決断します。7年前の偶発的な愛に基づいて、ボヘミアへ戻るというのっぴきならない決断をしたのです。
 選択と決断の背後にあるものは、メタファーと偶然。

 もう一組の男女は、大学教授フランツと画家サビナ。下着姿のまま古い山高帽を被ったサビナは、えも言えずエロチシズムに満ちています。彼女は、女性であることは自分の選択によるのではないゆえに、それによって反発したり誇りにすることは、ばかげたことだと思っています。しかし、フランツは、彼女の「女性」であることに価値を見いだしています。彼の尊重する女性的要素は、彼が母親を熱愛していたことに起因します。このことが、二人の間を隔てる小経の背景にあります。ひとつのエピソード、この小説で、妙に印象に残っている一節です。
 フランツが12歳の頃、父親が出奔し、母子が取り残されます。母親は、節度を保ち悲劇を隠します。一緒に町へ出かけたとき、「フランツは母親が左右別々の靴を履いているのに気がついた。彼はどぎまぎし、母親を傷つけるのを恐れながらも注意してやりたくなった。街路で母親と一緒に二時間過ごしたが、その足元から目を離すことができなかった。このとき彼は、苦しみとはどういうものであるか理解しはじめたのだった。」
 実は、テレザとその母親との関係についても、言及されています。個々の人間の、今ある存在の背後に、親との関係が深く関わっていること、決定的に影響を受けていることが、小説の此処彼処に、でてきます。

 この小説は、時間と場所が相前後し、脈絡なく綴られている感じがします。それでいて、決して不自然ではありません。素直に理解されるのです。ただ、こうしてこの小説についてものを書くとなると、どのように料理していいのかが、見当つかなくなります。私の文章も、いささか支離滅裂。中途半端ですが、この辺でペンを置きます(こういう場合、キーボードを仕舞います、というのかな?)

 

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