映画『胡同の理髪師』
週末の午後、岩波ホールはほぼ満員の観客で埋まってました。そのほとんどが、シニア層。ハスチョロー(哈斯朝魯)監督作品『胡同の理髪師』を観に来た人たちです。パンフレットに書かれた監督の挨拶「観客の皆様が、北京の胡同(フートン)に住む、愛すべき老人の生き方に何かを感じていただければ幸いです」。
さて、北京から東京へのメッセージを見てみましょう。
93歳のチン爺さんは、北京の路地(胡同)の家に一人で倹(つま)しく暮らす理髪師です。今は、常連客を訪ね散髪をして生計を立てています。冒頭の、客の一人によく研がれた剃刀(カミソリ)で、鼻の下、顎、鼻筋、耳を剃っていく場面が、この映画のすべてを語っている感じがしました。無音の室内で、ジリジリジリと髭を剃り落とす音は、この映画のテーマ音のひとつです。チン爺さんの、衰えない手の動きと80年のキャリアを持つ理髪師としての腕の確かさが、この音に込められています。散髪の後、熱い蒸しタオルで顔を拭われた老人の客が、さばさばとした顔で言います。「いい気持ちだ」。そう、この映画は、観客を本当に、いい気持ちにしてくれます。観客は、理髪師チン爺さんの、常連客の一人になった気持ちになります。
毎朝6時に起き、夜9時床に着きます。これらのシーンではいつも、古い柱時計が大きくアップされます。静まり返った室内で、カチッカチッカチッと時を刻む音が、印象的です。時計の音は、もうひとつのテーマ音です。チン爺さんは、午前中はよく働き、午後は仲間とマージャンをして過ごします。寝てすごごしがちの常連客に言います。「動けるなら散歩して。テレビばかり見ていたらバカになるよ。マージャンは頭の体操。新しい服に着替えて。」これは、チン爺さんが、普通にやっていることばかり。いつもポケットには櫛を差し込んで、暇を見てはきれいで豊かな白髪に櫛を入れます。大変なおしゃれなのです。
カメラは、北京の「新」と「旧」を、そしてそこに住む人間の「青」と「老」を、鮮烈なコントラストでとらえます。老人四人がマージャンをしている狭い部屋のテレビには、美しい中国人モデルによる水着のファッションショーが流れています。狭く入り組んだ路地(胡同)の彼方には、北京の高層建築群が、高々と聳(そび)えています。しかし、その「新」の側にいる「青」たちは、必ずしも幸福ではありません。チン爺さんの息子は、いつも愚痴ばかりの貧しいグーダラ息子。一方、経済的に成功したある常連客の息子は、多忙で打算的で、父親をろくに訪ねもしない。妻との関係もしっくりしていない。
チン爺さんの古い友人が、亡くなります。死を身近に感じたチン爺さんは、自らの死の準備を始めます。葬儀屋に電話をして葬儀の段取りを聞き、新しい人民服を仕立て、路上の理髪師に髪を刈ってもらい、そして遺影写真を撮ります。チン爺さんは、きれいに身ごしらえして死にたい、と思っているのです。
老いにあって、淡々と死と向き合うクール(かっこいい)なお爺さん。私のお袋と同じ1913年生まれ。DVDが発売になれば、きっと母に見せてやりたい。彼女の反応や如何に。初老の私は、こんな風に老いていけばいいなあ、と感じました。また、中国の巷の人々を好きになりました。
パンフレットに採録されたシナリオから、チン爺さんの人生観にかかわるセリフを引用しておきます。
チャンさん「6,70歳まではと願ってきたが、80過ぎまで長生きできて幸せだよ」
チンさん「満足を知ってるね」
チャンさん「それでも毎晩寝る前に明日があるかと思う」
チンさん「年をとると、毎日精一杯生きるだけ。先のことを考えても仕方がない」
長寿の秘訣を聞かれて、
チンさん「別に秘訣なんて、年を取ると誰もが死を恐れ、生に執着し、不眠になるが私は違う。恐れないし、執着もない。すぐに眠れる」
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» 「胡同(フートン)の理髪師」おしまいの日々、ゆるやかにゆるやかに [soramove]
「胡同(フートン)の理髪師」★★★★オススメ
チン・クイ 、 チャン・ヤオシン 、 ワン・ホンタオ主演
ハスチョロー監督、2006年、中国、106分
北京オリンピックを機に、
街の中心部の古い建物は
どんどん取り壊されていると聞く。
古い町並みの風情有る...... [続きを読む]
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