『火山島』から10年
私の読書史のなかで、テーマにおいてもっとも重く、分量と期間においてもっとも長く読み続けた小説のひとつが、金石範(キムソッポム)著『火山島』(文芸春秋社1983,96,97刊)でした。
1948年、アメリカが強行した南朝鮮単独選挙に反対する「済州島4.3武装蜂起」をテーマにした小説。武装蜂起からゲリラ壊滅に至る1年間に、数万人の島民が虐殺されました。
在日朝鮮人作家で済州島出身の金石範氏が、1976年から20年かけて雑誌に連載し、単行本の第1部(Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ巻)が1983年に、第2部(Ⅳ~Ⅶ巻)が96,97年に刊行されました。私は、この単行本を買って読みました。小説のなかの世界は、たったの1年余の時間ですが、それに小説家は20年の歳月をかけ、読者の私は、読み終えるのに13年かかりました。それから10年、今年は、済州島4.3事件の60周年にあたります。著者の金石範氏が今週、朝日新聞(08.4.17)へ寄稿文を寄せられています。歴史を記憶し続けることについて、深く感動的に語られています。全文を書き留めておきたい。
金石範稿『済州島四・三事件 悲しみを表す自由の喜び』(朝日新聞08.4.17から)
4月3日、韓国・済州島の四・三平和公園で、島民を政府軍が虐殺した済州島四・三事件60周年の慰霊祭が、1万人参席のもとに行われた。日本から日本人、「在日」合わせて150人の大規模な訪問団が招待されたが、私もその一人だった。
金大中政権下の2000年1月、「四・三特別法」による内閣直属の四・三委員会の下に真相調査企画団が発足、3年の調査作業を経て四・三事件真相調査報告書が発表された。そこでは犠牲者数を「暫定的」に2万5千~3万人(討伐軍による犠牲者86.1%、ゲリラ側による犠牲者13.9%)と推定。四・三虐殺の責任は李承晩大統領と米軍にあると結論づけているが、それに基づいて03年10月、盧武鉉大統領が済州島を訪問の上、過去の国家権力の過ちに対する謝罪を行った。半世紀もの地下に埋もれた四・三の地上への復活である。
植民地から解放後の1948年4月3日、済州島で米軍占領下の南朝鮮だけの単独選挙を祖国分断をもたらすものとして反対し、武装蜂起が起こったが、約1年でゲリラ勢力は壊滅した。そして全島廃墟に化した焦土化作戦による破壊は、この1年間に集中している。爾後、済州島では四・三事件はタブーとして歴史の闇に葬られ、一切の記憶が抹殺されてきた。記憶のないところに人間は存在せず、歴史はない。
見てはならぬ、口を開いて話してはならぬ、耳で聞いてはならぬ。外部からの恐ろしい国家権力による記憶の他殺。権力に対する恐怖からくる島民自身による記憶の自殺。抹殺された記憶は内へと深く無意識の世界に沈みこんで、やがて忘却になり、死に近い沈黙に至る。四・三記憶の抹殺は、わが子の死体を抱いて悲しむことを、虐殺された父の死体を前にして父だと名乗って悲しむことの自由を、奪ってきた。記憶とともに歴史が済州島から消えて、半世紀が過ぎた。それでも死に絶えなかった記憶が、地中深くから陽の当たる地上に浮上して、ようやく人々は花の蕾が開くように小さく口を開き始め、死に近い忘却の彼方から蘇る記憶を、まだ全体には至らないながら、語り始めたのである。
第2次世界大戦後間もない1948年、密島での裁判なしの虐殺はほとんど外部に知られることなく半世紀が経った。例えば現在準備されているポル・ポト派特別法廷は、70年代のカンボジア大虐殺の責任と罪を糺す場であるが、四・三虐殺に対する法廷も遠くない将来、あってしかるべきではないか。
李明博政権になって、四・三特別法の「改正」や、同法による四・三委員会の廃止の動きなど、事態は逆行の兆しを見せ始めている。「国家正体性回復国民協議会」などの極右勢力の、左翼暴徒による左翼暴動だとして四・三事件を否定する、複数中央紙への大広告掲載などの動きが公然化している。
悲しみを悲しみとし、喜びを喜びとして表現する自由は、基本的人権意識以前の人間存在の自然的条件である。60周年慰霊祭は、犠牲者を前にして、遺族をはじめとした人々の悲しみを悲しみとする自由、悲しみに地を叩いて慟哭する自由の場であり、それはまた悲しみの抑圧から解放された喜びである。
悲しみの自由の喜びが、再び奪われるようなことがあってはならない。まだ沈黙のなかで開かずにいる悲しみの自由の蕾を、そのままに凍らせてはならない。
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