カミーユ・コローのヤドリギ
美術館の開く1時間まえに上野へ着いたので、公園のなかを歩いてみました。上野の森は、雨に煙っていました。空は暗い銀灰色に染まり、木々は新緑の輝きを一休みさせ、落ち着いた風情をかもしています。大きな白い花をつけたタイサンボク(泰山木)の前を、音大生がひとり、大きな楽器いれを両手に抱え、芸大キャンパスに向かっています。
ホームレスの人たちの青テントが、すっかりなくなっていました。ただ雨の中、貧しい身なりの人たちが、ベンチにうつろげに座っていました。公園を後にした人たちは、どこへ行ったのでしょうか。
国立西洋美術館で開かれている『コロー 光と追憶の変奏曲』を観ました。カミーユ・コロー(1796-1875)の作品は、この美術館の所蔵作品のなかに一点あり(今回も出展)、日本各地の美術館にも所蔵されていて、なじみの深い画家の一人です。何年か前に、ミレーなどのバルビゾンの画家たちの展覧会で観ましたが、あのロマンチックで詩的な風景画に、すっかり魅せられました。海のターナーや牧場のミレーとともに森のコローは、大好きな風景画家のひとりです。
森にかこまれた池、小さな舟をうかべて魚を釣る男、岸辺で本を読む女、沼のほとりの柳のしたで花を摘む女、池の辺の小径にたたずむ母と子。詩的で幻想的な風景の中に必ず、小さな人間たちが働いたり遊んだりしていて、絵画の中の世界が、この世のものであることを明かしてくれます。コローは、パリの西、ヴィル・ダブレーの別荘を幾度となく訪れ、その地をこよなく愛し、その風景をたびたび描いています。これらの作品を観ながら、愛する土地のあることの幸福を、しみじみと感じました。
場所は変わりますが、『モルトフォンテーヌの想い出』(1864 油彩)は、ヴィル・タブレーの作品群と同じモティーフの、とりわけその構成美のすばらしい作品です。画面左側の、ひとりの乙女と幼い姉妹は、何をしているのでしょうか。高橋明也著『コロー 名画に隠れた謎を解く!』(中央公論新社 08.6刊)やネットの「サルヴァスタイル美術館」では、摘んだ花を樹に掲げて遊んでいる、としています。たしかに岸辺には花が咲き、ひとりの女の子がその花を摘んでいるように見えます。19世紀のフランスに、花を樹に飾る遊びや風習があったのかなあ、と思いながら何となく不自然な感じがする。逆に宿り木か何かを採っているのではないか。帰宅後、ネットで「モントフォンテーヌの想い出 宿り木」で検索したところ、ドンピシャの素敵な回答がありました。ブルゴーニュ便りというサイトには、「こどもたちがヤドリギをとっている絵」と、大変説得力ある文章がありました。そして、ヤドリギ伝説について、次のように紹介しています。「ケルト人たちの風習は、今のフランスにも残っています。クリスマスが近づく頃、ヤドリギを玄関のドアの上などに飾ります。新年を迎えたときに、そのヤドリギの下に立ってキスをすると、その一年が幸せになのだとか。そのときに Au gui, l'an neuf ! と言うのが、「新年おめでとう!」の挨拶になります」(ブルゴーニュ便りより)。やはり、こちらのほうがいい感じです。
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