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2008年6月 8日 (日)

花岡事件

P1020538  先週の日曜日、勤め先同僚の母親の葬儀に参列するため、秋田・能代市に行きました。そして、能代から盛岡へ車で帰る途中、大館市の花岡鉱山跡地を訪ねました。
 花岡鉱山は、1994年に廃坑となっていますが、それまでの約100年の間、良質な銅・鉛・亜鉛のほか金・銀の貴金属をも採掘してきた、日本でも屈指の鉱山でした。アジア・太平洋戦争末期、強制連行されてきた中国人418名が虐殺された、花岡事件の起きた現場です。写真は、十瀬野公園墓地に建てられた「中国殉難烈士慰霊之碑」です。毎年6月30日に、この碑の前で、慰霊祭が行われています。

 戦線拡大に伴う絶対的な労働力不足を補うため、政府の方針に基づき、日本企業は中国から約4万人を拉致のうえ連行し、全国135カ所の事業所で強制労働に従事させました。1944年7月に鹿島組花岡出張所に強制連行された中国人は986名、このうち翌45年6月までに、137名が死んでいます。45年6月30日、過酷な労働と鹿島組社員による虐待に抗し、800名の中国人が蜂起しました。しかしたちまち弾圧され、蜂起後の拷問と更なる強制労働や虐待のなかで、それまでの犠牲者も含め418名が虐殺されました。同地の同和鉱業花岡鉱業所の場合は、連行者298人のうち死亡者は11人であり、鹿島組のひどさが際立っています。
 鹿島組社員による虐待の様子は、野添憲治著『花岡事件の人たち―中国人強制連行の記録』(社会思想社・教養文庫1995年刊)に詳しい。同書は、著者が1971年、花岡事件の犠牲者であり、戦後日本に残った三人の中国人の証言を、綿密かつ丁寧に記録した、貴重な歴史文書です。P1020521  
 蜂起した中国人を鎮圧し逃走者を追跡するために、警察官・消防団・憲兵・在郷軍人・鉱山警備隊のほか鉱山会社社員など、延べ2,4000人が動員されました。逃亡した中国人の10数人は日本刀や竹やりで殺されましたが、多くが捕縛されて、花岡鉱山の共楽館という劇場前の広場に集められ、2人づつ後ろ向きに縛られたまま、砂利のうえに座らされ、三日三晩にわたって拷問と虐殺が続けられました。その犠牲者は、113人にのぼりました。写真は、この共楽館の址に建った碑です。花岡事件の歴史的遺跡は、そのほとんどが戦後壊され、跡形もありません。

 現在、この花岡事件をめぐり、熱い論争が戦わされています。中国人被害者が起こした損害賠償訴訟での「和解」についてです。2000年11月、東京高裁の和解勧告に基づき原告(中国人被害者)・被告(鹿島建設)両者の間で「和解」が成立しました。被告(鹿島建設)が、5億円を「花岡平和友好基金」として積み立て救済することで決着したのです。原告代理人の弁護団は、「全体的な解決を図った画期的な和解だ」と高く評価し、和解勧告した裁判官も、この和解成立が「日中両国及び両国国民の相互の信頼と発展に寄与するもの」と手放しの評価をしました。日本のメディアのほとんどが、弁護団や裁判官の評価をうけて、いずれも画期的な和解と評価しました。
 しかし、原告代表の中国人リーダー(蜂起時のリーダーでもある)が、この「和解」を実質的に拒否したのです。彼の主張は、「①鹿島の鄭重なる謝罪 ②鹿島建設による記念館の建設 ③一人500万円の賠償」の3項目でしたが、「和解」ではどれひとつも実現しませんでした。とくに、第一項の「謝罪」はなされていない、としています。精神科医で関西学院大学教授の野田正彰氏は、「世界」(08.1,2月号)の連載記事『虜囚の記憶を贈る』の第6,7回で、中国人リーダーを取材しその花岡蜂起の体験を記録する中で、原告団を痛烈に批判しています。これに対して、原告団の立場から和解に関わった、歴史家で龍谷大学教授の田中宏氏が『花岡和解の事実と経過を贈る』(「世界」5月号)で反論、更に野田氏が、「世界」6月号で再反論しました。
 論争の最大のポイントは、鹿島の「謝罪」にあると思います。
 1990年、来日した花岡事件代表団は鹿島建設と交渉し、その後の記者会見の席上で、鹿島建設ははじめて謝罪をしました。「90共同発表」では、鹿島が花岡事件は強制連行・労働に起因する歴史的事実として認め、「企業としても責任が有ると認識し、当該中国人生存者及びその遺族に対して深甚な謝罪の意を表明する」と明記されました。2000年の「和解」では、この1990年の「共同発表」を再確認しますが、次の但し書きが挿入されました。「被控訴人(鹿島建設)は、右「共同発表」は被控訴人の法的責任を認める趣旨のものではない旨主張し、控訴人らはこれを了承した」。「深甚な謝罪」を表明した「90共同発表」を再確認しながら、鹿島建設の「法的責任を認める」趣旨ではない、という訳でが、これではいかにもわかりづらい。しかし、当の鹿島建設が発表した「和解」直後のコメントは、極めて明確でした。「当社に法的責任がないことを前提に、和解協議を続けてまいりました。・・・本基金の拠出は、補償や賠償の性格を含むものではありません」。
 ともに歴史と真摯に向かい合い、贖罪の気持ちをもって、被害者の救済と和解とを進めようとしている人たちの間での、深刻な対立です。法廷や和解交渉の場は恐らく、期限の決められた、決裂の許されない場であったろうと想像します。しかし、原告代理人が、どのように弁解し説明しょうが、原告その人が納得しなければ、この「和解」は、やはり評価は困難といわざるを得ません。 

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