イサク・ディネセン著『アフリカの日々』

ディネセンは、農園主としてアフリカの人々と交わり、サファリで野生の動物たちと対峙し、ヨーロッパからの植民者や放浪者たちと関わりながら、アフリカを体験します。
ディネセンは初めのころは、狩猟に熱中し、アフリカの野生に感動します。黒くて巨大な鉄のようなバッファローの群れ、奇妙で優雅なキリンの行進、殺戮を終えた血まみれのライオン・・・。「文明化した人間は静止する力を喪失しているので、野生の世界に受け入れてもらうためにはまず沈黙を学ばねばならない・・・狩猟家は・・・風と合体し、風景の色や匂いと同化し、自然のテンポにあわせてアンサンブルをつくらなければならない。自然はおなじ動きを何度となく繰りかえすことがあり・・・それに従わねばならない」。彼女は、サファリ体験をとおして、アフリカのリズムを獲得し、これがアフリカ人とのつきあいに役立ちます。そして、暗色の肌を持つアフリカ人との出会いは、自分の世界がめざましく拡がることになります。境界を越えたひとの実感のこもった言葉です。ディネセンは、この拡がった世界を読者に開陳し、読者は、小説を読むことによって拡がっためざましい世界を、疑似体験します。
登場するアフリカ人は、農園に居住する1200人のキクユ族と隣接地に住むソマリ族や遊牧の民マサイ族です。キクユ族は、この高地に焼け畑をつくって芋やトウモロコシを植え、争いごとを好まない温和な、「ただ自分たちのあるがままの暮らしを続けたいとねがっている」人々です。ソマリ族は、象牙と奴隷を目的としたアラブ商人とともに高地に侵入してきた、性には禁欲的ですが、金銭欲の深い、熱烈なイスラム教徒です。マサイ族は、高地にあって槍と盾を手にした戦士たちで、宗教をもたず奴隷にはなれない気質のひとたち。おもに農園に住むキクユ族との交流が話の中心ですが、助手でスワヒリ語通訳のファラは、ソマリ族の出身ですし、ンゴマという2000人ものキクユ族が集まった踊りの大会に、12人のマサイ族の若い戦士が闖入し、大騒ぎをおこしたりします。3つの種族が、通婚と日常生活で、交流しあっています。
農園でおこった子どもによる狩猟事故の顛末に、農園主ディネセンの現地人との関わりようがよく見て取れますし、彼女のこの事件に対する並々ならぬ関心の強さに、小説家ディネセンの好奇心のありよう、アフリカとアフリカ人に対する愛情の強さを感じます。
事故は、子どもたちのパーティーの席で起こりました。農園に住むひとりの子供が、冗談で持ち出した散弾銃を、実弾が入ってないと思い込んで、自分の招いた客に向けて撃ったのです。ひとりが死に、もうひとりが重症を負いました。農園の長老会議キャマが開かれ、ディネセンに判定を求められます。ヨーロッパとアフリカの正義の観念の違いを見出します。アフリカ人にとっては、動機は問われない。つぐないは羊や山羊や牛に換算された賠償によるのです。一週間のキャマのあと、加害者の親は、被害者の親に40頭の羊を賠償することで決着します。この加害者の親は、借地人の仲では物持ちの一人で、35頭の牛、5人の妻、60頭の羊を持っていました。重症を負った子どもに対しては、子ども本人に雌牛1頭と雌の子牛1頭が贈られることになりました。協定書の末尾に、ディネセンの署名があります。「ブリクセン男爵夫人(署名)」。この署名は、入植時に結婚し、6年後に離婚した「ブリクセン男爵」に因むもの。この小説では、「夫人」であることはこの署名だけが示してくれますし、「夫」については、第一次世界大戦で志願した夫から、食料と武器弾薬の補給を求めてきたという記述のみで、他には全く触れられていません。この小説の中では、ほとんど存在感のない夫であり、結婚そのものが「無」となつています。男性については、農園への客たちが、魅力的に語られます。冒険家や放浪者たちが、訪ねてきます。デンマーク人の老人は、盲目となって農園にたどりつき、死ぬまでここですごします。スウェーデン人の喜劇役者は、投獄の恐れからタンガニーカへの出国を目指し、一晩の宿といくらかの借金をして、翌日出掛けて行きます。ライオンの襲撃を避けるため、道中マサイ族が助けてくれたと、貸した金を同封した礼状が届きます。そして、最も大切な友人が、訪れてきます。
デニス・フィンチ・ハットンは、イギリス人の植民者で、サファリの案内人を仕事としていました。ディネセンの農園を根城に、サファリに出かけます。彼女は、サファリを共にするとともに、デニスからラテン語やギリシャの詩を教えてもらいます。そして彼は、農園での生活で最大の、われを忘れるようなよろこびをあたえてくれました。アフリカの空を飛行することです。低空飛行でバッファローを追ったり、3000フィートの上空を風を切って飛びました。一羽のワシを追いかける遊びは、すごい。「そんなときにはこちらも機体を左右に傾けて、鳥の翼の動きをまねた。眼の鋭いワシは、私たちと一緒に遊んでいたにちがいない。一度、ワシと並んで飛んでいたとき、デニスは上空でエンジンを止めた。するとワシの鳴き声がきこえてきた」。農園が破綻したその年に、デニスは飛行機事故で亡くなります。
ディネセンの農園は、コーヒー栽培には向いていませんでした。しかも深刻な旱魃の年がつづきました。農園の経営は厳しくなり、デンマークの親戚の出資者たちは、農園を手放すことをすすめてきました。旱魃の後には、イナゴの大群が襲ってきました。おなじ年に、キクユ族の族長が亡くなりました。
ディネセンは、これらの一連の不幸な出来事は、偶然とは考えられません。一貫した原則があるはずだと思い定めた彼女は、徴(しるし)を探しに出かけます。ハウスボーイたちの家のほうに歩いていき、しばらく鶏たちを見ていました。大きな白い雄鶏が、突然立ちどまり、とさかを突き立てました。小さな灰色のカメレオンが現われました。「おびえてはいたが、このカメレオンはとても勇敢だった・・・思いきり口を大きくあけて、敵をおどそうと、雄鶏めがけて目にも止まらぬ速さで棍棒型の舌を突きだした。雄鶏は一瞬ひるんだが、すばやく断固たる調子でハンマーを連打するようにくちばしでつつき、カメレオンの舌をちぎってしまった。この遭遇はものの10秒とかからなかった。私は気を取り直してファジマの雄鶏を追いやり、大きな石でカメレオンを叩き殺した。カメレオンは舌がなくなったらもう生きられない」からです。不気味な恐ろしい出来事でした。彼女は一層、落ち込みます。数日たって、ごくゆっくりと目を開かれていきます。「私が呼びかけたものは、私の祈りを黙殺することをえらんだのだ。大いなる緒力は私に笑いかけ、その声は丘陵にこだました。トランペットの音のなかで、雄鶏とカメレオンのなかで、その声はたかだかと哄笑した」。アフリカの魂が、ディネセンのなかに育ちはじめたのでしょうか。
農園を手放し、デンマークに帰ることを決意します。近在の老人たちが、彼女のためにンゴマ(踊りの大会) を催してくれました。100人ほどの老いた踊り手たちの姿は、厳粛そのものでした。「この老人たちに装飾はなにもいらない。彼等の存在そのものが強烈な印象を与えるのだから。ヨーロッパの舞踏会では、年老いた美女たち若く見せようとして、必死に装っているのを見かけるが、この老人たちはそんなことはしない。踊り手自身にとっても、また見物人にとっても、この踊りの意義と重さは踊り手の老齢そのものにあるのだ。老人たちは私がこれまで見たこともない、なんともふしぎな模様を体に描いていた。寄る年波に曲った手足に沿ってチュークを塗ったすじは、皮膚の下にかくれた、こわばってもろい骨格のありかをくっきりとあらわに強調している」。しかし、ナイロビからの政府命令で、ンゴマは中止に追いやられました。
ディネセンが去るのをもっとも悲しんだのは老女たちでした。ひとりのよく知らない老女に、小径で出会いました。「道で出会うと彼女はじっと立ちどまり、私の行くてをふさいで、こちらの顔をまじまじと見つめた。平原でキリンの群れに行きあったとき、そのなかの1頭がおなじように私を見つめることがある。どちらも、私の考えおよばない暮らしかた、感じかた、考えかたをもっている。やがてこの老女は泣きだした。頬をつたって涙が流れる。平原にいる雌牛が、眼のまえで突然放尿するのに似ていた」。この小説で、最も感動した一節です。
巻末の年譜によれば、1914年29歳でアフリカに渡航し、結婚と同時に入植しています。そして7年後には夫と別居し、その後1931年の農園破綻とデンマークへの帰国までの10年間は、彼女がひとりで農園を経営しつづけています。夫からは、梅毒を感染させられています。植民地主義時代のヨーロッパ人植民者である著者の、凄まじいまでの生命力と旺盛な好奇心に、驚きます。植民に失敗し、亡霊のように放浪するヨーロッパ人たちを、冷静に見つめながらも手助けを忘れない著者のやさしさは、マサイ族の精神に通じるものです。20世紀最高の紀行文学と称されるにふさわしい小説でした。
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