« アブサロム、アブサロム ! | トップページ | 9条の会・結成2周年の集い »

2008年8月10日 (日)

東北のキリシタン遺跡を訪ねて

P1030534  去る6日(水)、岩手出張を機に、同県藤沢町大籠のキリシタン遺跡を訪ねました。東北のキリシタンといえば、慶長遣欧使節の支倉常長(はせくらつねなが)のことを、遠藤周作著『侍』(新潮文庫86年)で知っていた程度で、東北でのキリシタン殉教については、最近まで知りませんでした。
(写真は、大籠キリシタン殉教公園にある大籠殉教記念クルス館)

 このことを知った切っ掛けは、現在、日本のカトリック教会で大きな話題となっている「ペトロ岐部と187殉教者」の列福のニュースでした。17世紀前半(江戸初期)の日本各地のキリシタン殉教者たちが、人間の尊厳と信教の自由を守りぬいたとして、ローマ教皇によって福者(Beatus)の称号を受け、今年の秋、列福式が行われることになっています。このペトロ岐部が、東北布教に中心的な役割をはたした神父の一人だったのです。前橋カトリック教会の岡神父さんが、ミサの説教のなかで触れておられました。
P1030481_2  藤沢町大籠は、何軒かの農家が点在する山間の里でした。昔ながらの木造の農協支所の手前を山に向かって入っていくと、キリシタン殉教公園がありました。駐車場には車1台なくひとけもありません。資料館の入り口近くに、『イフトゥス』という魚のモニュメントがありました。「ローマ帝国時代 弾圧を受けていたキリスト教徒たちは キリストを「魚(イフトゥス)」のかたちで表し 象徴として用いた」と製作者・欠畑美奈子さんの言葉が、台座に刻まれています。P1030493_2
 小さな資料館で、東北へのキリスト教の布教と弾圧の歴史を学びます。1639,40年の両年、ここ大籠で、300人以上キリシタンが処刑されました。島原の乱の2年後のことです。資料館前の公園には、互いの目を見つめ合う『母子像』(土屋瑞穂作)が、ひっそりと立っていました。P1030496
 大籠でキリスト教を布教したのは、製鉄技術者として備中(今の岡山県)から招かれた千松大八郎・小八郎兄弟だといわれてます。この兄弟の製鉄技術は、当地の鉄生産を飛躍的に増やし、人々の暮らしを豊かにしました。また、千松兄弟の説くキリスト教は、心の安寧を求めていた人々に、深く浸透していきました(史料館パンフの首藤康夫氏の解説から)。
  史料館から長い階段が、直線状に上方に伸びています。途中、加賀乙彦・田中澄子・遠藤周作などの殉教顕彰碑がたっていました。P1030509
 「たたなわる緑の丘のここ大籠の地に立つと、キリストにならい己が命を捧げ永遠の命を得た人々の霊が、この平安と美を現出させた気がし、私は深い感動と安堵を覚える。1996年11月 加賀乙彦」
 「わたしは夕暮れ近く大籠街道を歩いたのだが、点々と残っている首塚や処刑場の跡に寒けさをおぼえたのだった。九州の切支丹遺跡を訪ねてもこんな陰惨な感じをあたえる場所はなかった。ここは文字どおり東北切支丹の最後の聖地であろうと思えた。平成7年10月 ポウル・フランソワ 遠藤周作」P1030559 
 300段余の階段に沿うようにあった坂道には、彫刻家・舟越保武作『十字架の道行』が刻まれていました。イエスがピラトから死刑の判決をうける場面に始まり、重い十字架を背負ってゴルゴタの丘を登り、十字架に付けられて死し、そして棺に納められるまでの受難の様子を、14枚のレリーフに彫った作品です。300人を越える大籠キリシタンの受難が、イエスの受難に重なってきます。P1030528
 階段を登りきると、程よいひろさの広場に、小さな教会堂がありました(冒頭の殉教記念クルス堂)。殉教者慰霊の地は、舟越保武氏の祈りと美の世界でした。小さな教会堂は、舟越氏の指導の下で設計され、御堂の中に安置された十字架のキリストと聖マリア・マグダレナおよび聖クララの3つのブロンズ像は、氏の代表作であるのは、いうまでもありません。御堂のなかは 、美術館にはない静謐さが漂っていました。P1030570
 先の農協支所の脇に、小さな札が立っていました。「地蔵の辻」。一名無情の辻ともいい、1639,40年178名、その後の処刑を含めると200余名が、打ち首、十字架ハリツケなどで集団で処刑されました。立て札には「鮮血が刑場下の二股川を血に染めた無残なこと筆紙に尽き難きもの」と記されています。このほか、上野刑場と祭畑刑場の跡地を見ました。また伊達藩の検視役が座って処刑を監視したという首実検石も近くにありました。P1030591
 やっと乗用車が通れる道幅の山道を15分ほど入った赤松林の中に、大柄沢キリシタン洞窟がありました。1621年にフランシスコ・バラヤス神父がこの地に来てから1639年に仙台で捕らえられ江戸で処刑されるまでの間、ミサをあげるために造られた洞窟と見られています。奥行き10メートルもない小さな洞窟ですが、つきあたりには祭壇が造られており、マリア像が置いてありました。バラヤス神父が捕らえられた後はミサも行われず、その後350年の間、人に知られず今日に至ったと、入り口近くに立てられた説明の板に記されていました。

 日本列島に住む人々が初めて、ヨーロッパ文明と真っ正面に向かいあった日々、それが17世紀の日本のキリスト教徒の殉教の日々でした。その日々はキリシタンにとっては、日本の社会や文化との対峙の日々でもあったのです。キリシタンの舞台が、九州から東北にいたる日本列島の広範な地域に拡がっていたことに驚きます。しかし、キリシタンを通して日本の社会に影をおとしたヨーロッパ文明の痕跡は、徳川幕府の鎖国政策の下で、完膚なきまでに消されてしまいました。 

« アブサロム、アブサロム ! | トップページ | 9条の会・結成2周年の集い »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/155294/42119223

この記事へのトラックバック一覧です: 東北のキリシタン遺跡を訪ねて:

« アブサロム、アブサロム ! | トップページ | 9条の会・結成2周年の集い »