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2008年8月31日 (日)

残雪著『痕』

Photo 池澤夏樹個人編集『世界文学全集』全24巻(河出書房新社 07.11- 刊)のうち、アジアを舞台にした作品は既に、M・デュラス著『太平洋の防波堤/愛人ラマン』が刊行されていますが、アジア人の作品は、今回の2作品が初めてであり、この全集のなかでは、この巻のみです。
 そのうちのひとつ、現代中国の女性作家、残雪(ツァン・シュエ 1953-)の作品集『暗夜』は、7つの短編からできています。簡潔明瞭な文体に惹かれて読みつづけるうちに、物語の迷路に迷い込んでしまい、混乱と不条理の世界を経て、読後は呆然とする始末でした。

 『暗夜』に収められた最も長い小説『痕(ヘン)』について、二,三のことを書き留めておきます。
 小説を読む時はいつも、作品理解の基本的な情報として、主人公初め登場人物たちの名前や年齢とともに、舞台となった時代と場所を特定したくなります。そして今回も、『痕』を読みながら、そうしました。主人公・痕は、村に住む大口たたきのむしろ織り職人。三角眼で眉のない凶悪な人相の鍛冶屋の老人が、重要人物のひとりとして終始登場します。おべっか使いの古い友人・景蘭(チンラン)とその従弟が断続的に登場し、不思議なむしろ買い付け人も、重要な役割を担って、こちらもやや定期的に登場。このほか、蔓草を噛んで傷口に貼り付ける漢方医や痕の家を借りようと狙っている老人、痕の飲んだ茶碗を本人の前で割ってしまう茶店のおかみ等多彩な人物が、主人公・痕と「直線的」あるいは「曲線的」な関係をもっています。彼らの村は、田畑と山とからなり、村内には茶店のほか油や米を売る店があるようです。山は荒山で、華南虎がいるとのこと。登場人物たちの職業や交わされる会話からみると、時代は近代以前あるいは近代初期のような感じがします。ところが読みすすむにつれ、ビニール袋や魔法瓶が登場し、農薬散布や蓄音機に録音する場面がでてきて、おやっと思います。そして最後から3ページ目に突然、「1991年がこんなに速く過ぎていく」という妻の台詞がでてきて、時代は現代なのだと、無理やり理解させられます。
 むしろ買い付け人は、痕が作ったむしろを、全量しかも市価の倍の価格で買い取っていきます。痕は、こうして稼いだ金でたびたび米や肉を買い、村の老人からぜいたくなことを咎められます。買い付け人は、むしろを買った後は何時も、山へ入って行きます。買い付けたむしろをすべて、山の栗の木のしたに棄て、どこともなく姿を消します。やがて痕がむしろ作りをしなくても、買い付け人は金だけを置いていくのでした。こうして痕は、堕落していきました。この売買のなかで、「契約書」が登場します。買い付け人が提示し、痕夫婦が中身も確かめずに云われるままに署名します。「失うものは何もない」のだから、内容なんてどうでもいい、という夫婦の会話。これは将来、何か不具合が起こるな、と読者に予感させます。しかし、物語の最後まで、この売買と契約書に関わるトラブル、事件は何もおこりませんでした。この「契約書」は何を示唆したのか、わかりません。
 痕が、寝床に横になって時間つぶしの方法を考えつく場面があります。「毎日髪をとかすときの抜け毛を集めて、おもしろい織物を織ってみよう。考えれば考えるほど興奮して細部まで想像をめぐらし、しきりに寝返りを打ってなかなか寝つかれなかった。」魯迅の小説にこんな場面があった、という偽記憶が蘇ってきます。
 簡潔明瞭かつ骨太な表現を一ヶ所引用します。
 「時間は寂寞のうちにいつしか過ぎ、瞬く間に半年が経った。窓の外はすでに初夏の緑となり、生け垣には黄色い小さな花がぽつぽつと咲いている。」恐らく原文の調子を生かしながら、日本語訳したものと想像します。このように文体の明瞭さにかかわらず物語は昏迷の極にあり、私にとっては極めて稀な読書となりました。

 

 
 

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