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2008年11月15日 (土)

在日コリアンの証言に耳を傾けよう

  丸の内OAZOの丸善で、新書としては不似合いに分厚い本が、文庫・新書コーナーに平積みにされていました。小熊英二・姜尚中編『在日一世の記憶』(集英社新書 08.10.22刊)。在日コリアン一世52人のライフ・ヒストリーを聞き取り、記録したもの。日本の植民地となった朝鮮半島に生まれ、生活苦や強制連行・徴用などによって来日し、戦後(解放後)も日本に留まらざるを得なかった人々とその家族たちの、貴重な証言集です。在日として生きつづける人たちとともに、私も日本人の1人として、これらの証言を記憶しつづけていきたい。日本社会での多様な人々の豊かな生き方を発展させ、それが東北アジアの平和と繁栄につながっていくことを希求しながら。

 証言する「在日一世52人」の生年をみますと、1910年代6人、20年代33人、30年代12人、そして40年代1人となっています。大正から昭和のはじめにかけて渡ってきた、現在80歳台の人たちが大半です。証言を得るには、年齢的にはギリギリのところです。来日の動機や経過は、出稼ぎ、強制連行、徴用、異動、逃亡などさまざまです。女性や子供に多いのは、先に海を渡った夫や親を追って渡航してきた人たちです。職業は、パチンコ店や焼肉屋の経営者、海女、チマ・チョゴリ縫製業、詩人、歴史学者、音楽家、画家、キリスト教牧師、ハングル・ソフト開発者、教師などと多様です。民族団体活動家は、専任者もあれば兼業の人もいます。また、サハリンからの引き揚げ者、広島長崎での被爆者、ハンセン病元患者なども含まれています。これら52人の人たちの共通項は、まさに「在日」の一言に尽きる、と思えるほどに多様な人生が、語られます。読書中にサイドラインを引いた、幾人かの証言の一部を、メモに書き留めておきます。本書のイメージが、部分的にも伝わればと思います。

 わたしは文字を知りませんでしたが、80歳過ぎて、地域の市民の方がボランティアで始めた「青春学校」という識字学校に通い文字を学びました。わたしが日本の先生に教わって生まれて初めて書いた文章です。
 「わたしのねがい じをかきたい。しんぶんをよみたい」「てがみをかきたい。てがみをかいて かんこくのしんせきに だしたい 1996ねん12がつ19にち」 (姜金順 カン・グムスン  女 1911生)

 俺は女の子4人、男の子1人なの。妻は日本人でしょ。だからほっといたらみんな日本人になっちゃうの。日本に来てもうけたのは子どもしかないのに、日本人を作りたくないから、全部朝鮮学校にやった。(李錫玄 リ・ソクヒョン  男 1916生)

 わたしたちの部屋はみんな朝鮮人ばかり。そこに棒頭(幹部)が7人いて、みんな6尺ほどの棒を持っていて、「コラー」って怒鳴るのです。「コラー」が初めて覚えた日本語でした。(成周 八ソン・ジュパル 男 1917生)

 「創氏改名」のとき、姓を「犬子」とした人がいました。それは自分の代になって姓を変えたのは先祖にたいし大罪をおかしたことで「ケジャシッ」(犬の子)にも劣るという罪悪感と自分自身にたいする厳しい叱責の念をこめたものでした。(白宗元 ペク・ジョンウォン 男 1923生)

 僕は本国で育ってるから、自分の中にリズムがある。巫女(ムーダン)の踊りなど、しょっちゅう見てるじゃない。日本のリズムとはまったく違う。要するに3拍子が主になってて。もともと騎馬民族だから、非常にダイナミックなんだよ、リズム感自体が。ヨーロッパの油絵で、もっともリズム感が強いのがセザンヌなんだ。・・・セザンヌが自分のリズムでやっているように、僕は僕のリズムでやりたいと思う。(呉炳学 オ・ビョンハク 画家 男 1924生)

  わたしたち在日には国がないのですよ。韓国人ですが本国の選挙権がないでしょう。だから「在日が国籍」なんです。在日で生きることは頼ることがないという意味です。(南周也 ナム・チュヤ 女 1924生)

  わたしは反日という言葉が嫌いなんだよ。だから憂日という言葉はどうですか。国家という言葉は嫌いだから、自分たちが住んでいる川崎市も含んだ地をあえて愛する。しかし愛すればこそ、憂いを持って警告を発することができる。在日の一つのマイノリティ集団として果たす役割がここにあるのじゃないかしら。(李仁夏 イ・インハ 牧師 男 1925生)

  昔、対馬には一年に一回、旅回りの芝居が来たんです。・・・一週間も雨が降って、芝居ができなかったら、あの人たち食うのに困るじゃない。それでうちの主人がね、お米やらなんやらカンパしたの。買い取ったわけよ、芝居を。それでみんなただでね、村の人やら朝鮮の人に見せてあげたわけよ。・・・(不思議な縁で3,4年前、浅草の木馬館の座長から、その父親が対馬でパチンコ店の社長に助けられそのおかげで現在の木馬座があることを知ります)(平野八重子 日本人 在日一世と結婚 1926生)

 拉致問題が騒がれていたとき、左京区に嫁いでいるうちの娘の子どもが学校から、「韓国人帰れ」いわれて泣いて家に帰ってきたというんです。それでうちの娘が学校へ乗り込んで、「韓国人いわれるのは韓国人やからどうもない。そやけど『帰れ』という言葉は許されへん。わたしは父が強制連行された者の二世です・・・」と抗議しました。(玄順任 ヒョン・スニム 女 1926生)

 この年でも働かねば生活できませんから、頑張って働いてますのや。年金もないし。高齢者の事業組合で、パートやけど、宇治の文化センターで週2回掃除をやってるんや。(金君子 キム・グンジャ 女 1928生)

 『朝鮮詩集』は、当時日本人になることを学んでいた皇国少年のわたしに、朝鮮の詩心が「絢爛たる日本語に抱え込まれ」ていたことを教えてくれてうれしかったんだ。朝鮮が解放され、一人の朝鮮人になったわたしは、植民地支配のなかで死語にされた朝鮮の息吹にふれ、日本語による情感とは別のリズムが体内に脈打つのを覚えた。その狭間を明かしたい。否応なく日本語を併せもった者として、『朝鮮詩集』の日本語と原詩のかねあいを明らかにしたいんだ。(金時鐘 キム・シジョン 詩人 1929生)

 キムチの商売を始めたのは1960年、27歳のときでした・・・500円ぽっきりの軍資金・・・わが家は路地の奥にあった八軒長屋の中の一軒・・・キムチ作りは裏の土間でする状態でした。(李連順 イ・ヨンスン キムチ・チェーン経営 京都最大シェアー 女 1934生)

2001年12月には携帯端末向け翻訳サイト「J-SERVERポケット」を出しました。携帯電話に日本語を入力すると、英語や韓国語、中国語に翻訳するだけでなく、翻訳文を音声で話してくれます。もちろん英語や韓国語、中国語から日本語へと、逆もします。(高基秀 コウ・ギス 男 1934生)

 民族学校に入れて朝鮮人として育てた子どもたちだったけど、末の次女が結婚して国籍も日本に変更してしまいました。わたしはその末娘の結婚式にはチョゴリを着て出たんですよ。最初は反対されたけど、「チョゴリを着られないのならわたしは出席しない」といったんです。最後には納得してもらいましてね。その末娘は里帰りでうちに来るときはに、和服を着て来るんですよ。(石梨香 ソク・リヒャン 日本人牧師の娘で朝鮮人男性と結婚 国籍を朝鮮に 1934生)

 
        

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