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2008年11月 1日 (土)

土本典昭監督の最期の日々

  土本典昭監督作品『水俣-患者さんとその世界』(1971制作)は、悲しく衝撃的な作品でした。チッソの垂れ流した工場廃液を原因とした有機水銀中毒で苦しむ水俣の人々を主人公としたドキュメンタリー映画です。悲惨で深刻な症状を抱えながらも、懸命に生きる患者さんとその家族の日常生活が、淡々と描かれていました。私は、自主上映の会場で、嗚咽(おえつ)をこらえながら、見つづけた記憶があります。
 その土本典昭さんが今年の6月、お亡くなりになりました。末期の肺がんでした。緩和医療の実態を追い求めているノンフィクションライターの土本亜理子さんが、娘の立場からみた土本監督の最期の日々を、『緩和ケア病棟のある診療所で過ごして』(『世界』11月号所収)と題して報告されています。
 

 がん告知の場面があります。健康な時、がんの告知を求めていた監督に、娘さんは検査結果を告げます。
 「ベッドで横になったままひと言も口を挟まず聞いていた父は、説明が終わった後、点滴に繋がれ、痩せ細った両腕を上にあげ、パチパチと静かに手を叩いた。そして言った。『僕は真実が聞きたかった。・・・』」。娘さんは聞きます。「癌に対してできる限りの治療をしたい?それとも痛みを取り除くことを中心にしてほしい?」。監督は「人並みのことでいい」と答えました。
 末期がんと診断された母に対して、私はがんの告知をしていません。土本監督と娘さんのやりとりに、二人の精神の強靭さを感じる一方で、母の場合はこれでいいのだと、自分に言い聞かせています。母の場合、がんに対する治療はできない、と医者からいわれています。治療は、痛みを取り除くことが中心となります。幸い母に痛みはなく、従来と変わりのない日常生活を送っています。いまはただ、この状態の一日でも長からんことを祈るのみです。
 娘の亜理子さんは、土本監督を緩和ケア病棟のある南房総の病院に入院させます。洋室と三畳の和室のついた病室で、外には竹林や緑の木立をのぞみ、海の風の通る涼しく静かな部屋でした。ここでは、介護にあたる監督の妻も一緒に、過ごすができます。体位交換・食事の工夫・入浴・寝たまま新聞を読める装置の工夫等、よく行き届いた病院の看護によって、「生活の質は確実に良くなって」いきます。しかし、様々な緩和治療が提供されても、痛みがなくなるということはありません。
 緩和ケア病棟の多くが、積極的な治療はしないのですが、この病院の方針は違いました。患者にとって可能で必要な治療はやる、ということです。この緩和ケア病棟が積極的な治療をしないということの背景に、「緩和病棟では、何を行っても一日37800円と決められているので、化学療法を行うと、抗癌剤の費用分、病院が損をするのです」というある病院長のことばが引用されます。「人並みの治療」といった父親の希望にかなっているのかどうか、亜理子さんは院長に確かめます。人並みとは、「その人にとって有効な可能性のある治療を受けること」と院長は明言しました。
 土本監督の療養中に、100歳になる母親が亡くなります。娘の亜理子さんは、祖母の死を父に知らせたいのですが、監督の妻である義母は、伝えたくないと思います。亜理子さんが父親に知らせたかった理由のひとつに、父は「ドキュメンタリストとして、真実を知る必要があると思うし、真実を、いかなる病苦にあっても受け止められると信じていた」からです。一方、妻である義母は、夫である「土本は・・・長寿の母親を心に支えにしている」ので、母親の死を知らせたくないのでした。
 私が、娘の亜理子さんや監督の妻の立場に立ったとすれば、はたしてその時、どうしただろうか、どうするだろうか。
 母の緩和ケア病棟へ入院する日が、徐々に近づいているとの予感がするなか、土本監督の最期の日々についての娘の亜理子さんの報告は、深く静かに、私の胸中に浸透してくるようでした。土本典昭監督のご冥福を、お祈り申し上げます。 

  

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