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2008年12月28日 (日)

黄晳暎著『パリデギ 脱北少女の物語』

Photo 少女の名は、パリ。7人姉妹の末っ子で、一度は森へ捨てられた子。「パリデギ=捨てられし者」から名づけた祖母は、「パリ王女(デギ)」の意味を含意させていました。パリ王女は、両親と世の中の人を助けるために、日の沈む西天にある生命水を汲みにいってみんなを救った、という説話の主人公。祖母が、少女パリに託した救済への希望です。
 韓国の越境の作家、黄晳暎(ファン・ソギョン)著『パリデギ 脱北少女の物語』(岩波書店 08.12刊)が翻訳・刊行されました。。

 パリは、愛犬や死人の魂の声を聞いたり、人の過去を透視する不思議な能力を持った少女です。1995年、パリが12歳の時、家族は離れ離れになって、飢餓と抑圧の北朝鮮から逃れました。祖母と二人、国境の山中の穴倉に隠れて暮らしますが、やがて祖母は死に、パリはひとりぼっちになります。両親を探しに北朝鮮に戻りますが、途中、数多くの亡霊たちに出会います。また、山火事のエピソードは、北朝鮮の悲惨な現状を、哀しいまでに如実に表します。飢饉による餓死者が増えるにつれ、山への放火が止められなくなります。山を焼いて畑を作り、作物の種を蒔くためです。山を放火した人は、翌年から生き残りました。北朝鮮で繰り返される水害のニュースを思い起こします。
 再び国境を越え、ひとり穴倉に隠れます。
 15歳のとき大連でフット・マッサージ店で働き出しますが、店主夫婦とともに詐欺に引っかかり、スネーク団によって外国へ売られます。99年秋、密航船でコンテナに入れられたまま、ロンドンに着きます。そこでは、借金返済のための労働が待っていました。
 パリはロンドン下町にあるトンキン・ネイルサロンの店で、フット・マッサージをして働きます。職場でもアパートでも、東欧からの季節労働者と有色人種が入り混じって、働き住んでいました。貧しい国々からの、移民や難民が吹き溜まりのように集まってきています。彼らはそれぞれが、仏教を信じ、道教寺院に通い、キリスト教を信じ、そしてイスラムのムスリムでした。不法就労の取り締まりを恐れながらも、つましく、お互いをかばいあって暮らしていました。アブドル爺さんが笑みを浮かべて言いました。「わしらの服と食べ物がお互い少しずつ違っているように、暮らし方も違っているが、宇宙の摂理は一つなんだよ」。
 パリを指名する客に、大邸宅に住むエミリー夫人がいました。足をもみほぐしながら精神を集中すると、夫人の過去の姿が浮かんできます。金鉱で殺された大勢の黒人の姿が見えてきます。一族は代々、南アフリカで暮らしてきたのです。
 働きはじめて1年ほどたって借金返済を終えたころ、労働許可証をもたない不法就労者の取締りが厳しくなりました。それを避けるため、アパート管理人のパキスタン人アブドル爺さんの孫のアパートに避難することになりました。そして、この青年アリと恋に陥り結婚。アブドル爺さんは、カシミール紛争が激化した1960年代半ばに、イギリスに来ました。30歳の時でした。パリがアリの部屋にいるとき見た夢に、アブドル爺さんの妻と娘の姿がありました。紛争時に銃撃をうけて殺されていたのです。
 パリの夢には、世界中の暴力と抑圧によって殺された人々の亡霊が、出てきます。私たちを見捨てないで、私たちのことを忘れないで、と無言の叫びが聞こえるようです。
 アリとパリは、国外追放になって出て行ったナイジェリア人の住んでいた部屋で暮らし始めました。二人の結婚生活は、アブドル爺さんとも食事をともにし、平穏な日々が過ぎていきます。そこに2001年9月11日のニュースが飛び込んできます。そしてアフガニスタン戦争。アリの弟がパキスタンのペシャワールへ行ったまま行方不明になり、アリは弟を探すために、パキスタンへ旅立ちます。夫のアリも音信不通となり、パリは独りで子どもを産みます。
 スネーク団によって拉致され、ともにロンドンにやってきた、いまは売春によって生活する中国人女性に出会います。パリは、彼女に金を貸し食事を与えますが、その裏切り行為によって、幼い子どもを死なせてしまいます。家の引きこもって落ち込むパリ。「悪い女、お前を殺してやる」。ムスリムであるアブドル爺さんが、パリに声をかけます。
 「妻と娘たちが銃殺され、ジャム・カシミールを離れる時、わしもお前とまったく同じように神を恨んだ。何で、こんなに善良な人間に、苦痛を与えるのかと。だが、肉体を持ったものは誰もが生きながらにして地上で、すでに地獄を経験するものなんだそうだ。心はまさに自分が作った地獄だ。神は、わしら自らが解き放たれて近づいてくるのを、静かに待っておられる」。
 パリは、自分の体から離れて、二本の帆柱の船に乗って、空にフワリと浮かんで進みます。生命水を探すために。最初は火の海。「爆発する爆弾の轟音、銃声。飛びまわる飛行機とヘリコプター、走りまわる戦車と装甲車の銃撃音、爆裂音。途方もない数の群集が張り上げる叫び、女や子どもの悲鳴、怒鳴り声。」
 その次は、血の海。母や姉たちがいる。「黒人、白人、黄色人、各様各色の人種が船に乗っている。飢えて死に、病気で死に、苦しんで死に、働いて死に、殴られて死に、爆発で死に、火に焼かれて死に、水に溺れて死に、痛ましく死んだ、世の中のすべての魂が乗っている船。すぐ前で、誰かが体を外に出して叫ぶ。・・・どんな理由で、私たちは苦痛を受けたのか
 また別の船。「乱れ髪にし、腕を落とし、脚を落とし、首を落とし、血のついた軍服を着、包帯を巻き、義足をつけ、目を覆い、もがいている人々も乗っている。」この船に乗っていた義弟は叫びます。「どうして悪い奴が世の中で勝利するのか
 真っ黒な船のブルカをかぶった女人がつぶやく。「私の死の意味も、教えてください
 最も憎む者たちが乗っている船も流れてきます。
 最後に、なんでも丸ごと全部呑みこんでしまう、鴻毛も沈む砂の海。ここには、牧師と神父とバラモンとイマームと仏僧とラビとが、わからない言葉でわめいています。大声でわめきながら、砂の中に沈み込んでいきます。著者は、穏やかにひとの命を見つめるムスリムのアブドル爺さんの言葉は、敬意をもって書き留めていますが、経典を掲げ、大声でわめく宗教者は、容赦しません。ダンテの『神曲・地獄編』を思い起こさせる叙述が続きます。
 連続する長い夢を見ながら、パリは娘の死を受容していきます。
 イラクの戦争がおこり、コリアでもすぐに戦争が起こるようなニュースが伝わります。アリが後ろ手に縛られた夢を見ます。しかし、夫アリは、死んでいないと確信します。そして、21歳になった年、アリが帰ってきました。義弟は亡くなっていました。孫を亡くしたアブドル爺さんは、頭を垂れて祈ってからつけ加えます。「今くり広げられている戦争は、力の強い者の驕慢と力のないものの絶望が引き起こした地獄だ。我々は弱くて持たざる者だが、あの者たちを助けてやれるという信心を持たねばならぬ。世の中はもう少しよくなるだろう。神がなしとげられることを、燃え上がる憤怒の炎を警告したので、最も不幸な者たちこそ、そこに到達するであろう」
 帰ってきたアリとの幸福な生活がもどります。新しい子どもを授かり、平穏に暮らします。そうしたある日二人は、ロンドンを襲った地下鉄テロに遭遇します。道路には死体が散乱し、血が飛び散っています。パトカーと救急車のサイレンの音を聞きながら、現場を離れます。
 「「赤ちゃん、ごめんね」
 私は膨らんだお腹を抱えながら息を切らして歩き、そうつぶやいた。アリと私は道を埋めて止まっていた車の間をすり抜けながら、歩いていった。私が流れる涙を両手で拭いながら振り返ると、アリも泣いていた。」
 小説の最後の4行に、読者の私も、涙を浮かべました。
 世界の難民たち、戦争とテロの犠牲者、愚かな独裁者のもとで呻吟する多くの人々、そして職を失い家を失った人々の群れが、ここに加わります。この小説は、黄晳暎(ファン・ソギョン)による現代の黙示録です。私が「世界文学全集」を編集するなら、この作品をその一冊に加えます。
 
  
 
 

 
 

 
 

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