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2008年12月 6日 (土)

下仁田戦争と島崎藤村

P10503421  前回は、先週の日曜日に下仁田町を訪ねたことを、書きました。この日コンニャク畑からの帰路、下仁田町内に寄り、ネギとコンニャクとは別の、もうひとつの下仁田を見ることになりました。
 町の歴史民俗史料館から、狭く急な階段を下りていくと、「高崎藩士戦死之碑」という石碑がありました。この碑に隣接して、小さな自然石に文字を刻んだ、もうひとつの碑がありました。島崎藤村の詩碑です(写真左奥の二個並ぶ内の左側の石)。

 

P10503331過ぎし世をしつかにおもえ
百年もきのふの如し
               島崎藤村
かつて上州かふら河のほとりを旅せし縁故より旧詩の1節を求めらるゝまゝに

 この詩碑は、1931年(昭和6年)に建立されました。島崎藤村に『下仁田の宿屋』(1911年作)という短編がありますが、そのなかで下仁田投宿の様子が書かれています。碑文の「かつて上州かふら河のほとり旅せし」の旅は、20年前のこのときのことを指しているのでしょうか。「百年もきのふの如し」は、この藤村碑が勝海舟によって書かれた「高崎藩士戦死之碑」(下仁田戦争戦死者慰霊碑)に隣接して建てられているところから、この戦争も含めた、幕末から明治維新にかけての激動の時代を振り返っているのでしょう。詩碑建立2年前の1929年、藤村は「中央公論」に『夜明け前』を連載し始めます。ときあたかも、アメリカの株価大暴落から大恐慌の直撃をうけた日本が、ファッシズムの道へと突き進み始めた時期にあたります。『夜明け前』には、平田篤胤を信奉し「尊皇攘夷」をスローガンに掲げる人たちが登場し、昭和ファッシズムと共鳴し合う思想が飛び交っていました。「過ぎし世をしつかにおもえ」とは、藤村が、新たな激動の時代を幕末・明治維新の記憶に重ねて想起しているのかもしれません。。
 「尊攘」運動の最過激派が、水戸の天狗党でした。彼らは900余人の部隊を組んで、一橋慶喜のいる京都へ向かって行軍します。そして上州下仁田にて、幕命をうけて追撃してきた高崎藩と戦争になります。藤村は『夜明け前 第一部』で、那珂湊を出発してからの水戸天狗党の行軍模様を描いていますが、下仁田戦争については数行で簡単に触れているだけです。
 天狗党は、藤岡、吉井をとおり、上州一ノ宮(富岡市)の貫前神社にて必勝祈願をして、下仁田に入りました。P10503551 
 下仁田では、桜井弥五兵衛宅を本陣としました。写真は、現在もある桜井家です。当家は、上信電鉄や蒟蒻原料商の桜井商店を経営していた下仁田町の旧商家です。町の中心部に位置し、堂々たる商家のたたずまいを、今に残しています。
P10503411 一方、追い手の高崎藩は、下小坂村名主里見治兵衛宅に本陣を構えました。先の歴史民俗資料館の下り階段から見下ろす位置に、格式ある農家屋敷が見下ろせたのですが、そこが里見家です。土蔵の壁には今も、戦闘の弾痕が残っています。
 下仁田戦争は、6時間にわたる戦闘の末、高崎藩36名、天狗党4名の戦死者を出し、高崎藩が敗走して終わりました。天狗党はその後、内山峠を超えて信州佐久へはいり、今度は和田峠において、松本藩や諏訪藩の連合軍に待ち受けられ、再び戦闘となります。

 資料館で少々予習をし、町に出て桜井家や里見家をみて、明治維新の激動の跡を上州の小さな町に見出し、再び藤村碑に戻り、「過ぎし世をしつかにおもえ 百年もきのふの如し」の詩を読みなおしました。
 蒟蒻原料商の集まる川沿いでは、蒟蒻原料を精製する時の匂いが、一面に漂っていました。
 
 

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