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2008年12月21日 (日)

リービ英雄著『仮の水』

Photo  「分離帯からその黒い物体が離れた。
 後ろ脚で直立した黒い鹿のように見えた。
 黒い鹿が、一瞬首をまわしてから、直立のまま車線の中へ走り出した。走り出したとき、上着もズボンも黒い、やせた男だということと、五十歳ほどの年齢も分かった。
 ノンミン!と運転手がするどく叱る声をもらした。」  (リービ英雄著『仮の水』(講談社 08.8刊)より)
 高速道路とそこを横断する農民。越境の作家リービ英雄が日本語でとらえた現代中国の一断面です。先に読んだ水村美苗さんの「日本語を母語としない人でも読み書きしたくなる日本語」(『日本語が亡びる時』)を想起させるような、英語を母語とする日本文学作家による、美しく歯切れのいい日本語作品です。

 題名の『仮の水』の意味が、分かりませんでした。文中には、一度も出てきません。付箋をつけたところを読み直して、「仮」という漢字が、いくつか使われているのを見つけました。
 「仮票」(ジャーピアオ)。北京から西安へ向かう普通快速の車中で、西安で乗り換えて延安へいき高速道路で働くという大男の持っていた乗車券。「偽乗車券」として、警察官に連行されます。「仮」は「偽」を意味します。
 「仮の名前ですか」「真の名前です」。中国大陸の奥深い西域の、甘粛省のある駅に迎えた中年の女の日本語ガイドが、白人である主人公の「かれ」の名前、それは親日派の父親がつけた日本語名、をいぶかって尋ねます。「仮の名前」=ペンネームとすれば、ここでは、「仮」は日本語の「仮」に近い。しかし、これはきっと、日本人的感覚での解釈のような気がします。
 「仮道士」(ジャーダオシ)。反り返った屋根に粘土の小屋から、箱形の帽子をかぶった黒い衣の男が出てきました。老子を最高の神とする道士。しかし、「道ダオとは何か」を答えられない者は「仮道士」であり、山の境内には住まわせない。前後の文脈から、この「仮」は「偽」のようです。
 では「水」は、何を意味するのでしょうか。
 作中には、車窓からみた黄河のへどろ色の水とレストランのミネラルウォーター「西泉」が出てきます。ここは「西泉」でしょうか。しょっぱい麺を食べた後、軽いめまいを感じて求めた水。すこし苦く、「灰色がかったような味」で「砂利がとけて液体となったようなものがのどを通っ」ていきました。「かれは道の土を想像」します。そして、「シルク・ロードの土を飲んだ思いにかられ、小さなうれしさがのどの奥から滲んできたのに、かれは驚」きました。しかし、陽光飯店を出たとき、「腹の底へ落ちる灰色のしたたりを感じた」のでした。それ以前に、かれは既に、「腹の底でわずかな震えを感じ」、右ポケットに入った正露丸の存在をたびたび確認していました。「西泉」は状況を更に悪化させ、「仮の水」だったことを露呈します。
 天水市郊外の麦積山石窟の階段を登りながら、「腹の脇あたりに小波が立ったような軽いふるえを感じ」ます。そして、腹の底がうなり、大きく揺れます。車にもどり、市場に駆け込みます。急いで走ります。「止まったとき、腹の中から両脇腹に向かって、肌を破らんばかりの勢いが迫って」いました。老婆から有料のざらついたちり紙を受け取り、トイレに駆け込みました。仕切りのないトイレで「恥の予感を覚えながら」しゃがみ込みます。
 「腹の中で波が打ち寄せた。沖からまた大波が津波の速さで腹の中を横切った。」
 かれの目の前の壁には「十大性病を完治す」といった文字群があり、文字の下には携帯電話番号が書かれていました。
 グローバリズムの渦中にある沿岸部から、遥か遠い大陸の奥深い地で、伝統的な古い中国に「現代」を象徴する物が、断続的・断片的に差し込まれています。
 それにしても、「下痢」を小説に書いた事例は、谷崎潤一郎が『細雪』の最終行で、止まらない雪子の下痢の様子を書いていたことを思い出しますが、他には知りません。
 河南省開封(カイフォン)。1000年前の北宋の京(みやこ)。ここに西洋からシルクロードを経て渡ってきたユダヤ人たちのシナゴーグの遺跡があります。リービ英雄著『ヘンリーたけしレウィツキーの夏の紀行』(講談社 02.10刊)のクライマックスは、第四人民医院裏のボイラー室に、シナゴーグ遺跡の古い井戸を発見する場面でした。西洋人が東洋人になった場所。この地に14,5回もきたという「かれ」は、「銀色の髪をひっつめに結んだ背の低い老女」と出会います。この老女は漢民族ですが、この路地で生きてきた最後のユダヤ人の未亡人だ、ということを知ります。かれの父親もユダヤ人でした。そのことを老女に云ったとき、老女は微笑んで、彼の手を軽くにぎりました。抑揚の効いた文章で、感動の場面を描きます。
 リービ英雄さんは、アメリカから太平洋を渡って日本に来て住みつき、ここを拠点に中国に旅立ちます。つまり西洋を出発し、太平洋を越えて、東から開封のユダヤ人遺跡にたどり着きました。そして、800年前、シルクロードを通って西からやってきたユダヤ人の子孫の妻と出会ったのです。この書のもうひとつのテーマは、東洋人になった西洋人のアイデンティティを問い掛ける、著者リービ英雄さんの自己への問い掛けそのものだといえます。
 
   

 

 
  

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