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2008年12月 7日 (日)

水村美苗著『日本語が亡びるとき-英語の世紀の中で』

Photo 言葉の有史以来の異変。
 そのひとつ。地球にある六千の言葉の八割が今世紀末までに絶滅すると予測されていること。
 二つ目の異変。普遍語としての英語が、世界全域で流通し始めたこと。
 では日本語は、亡びるのだろうか。亡びることを避けるためには、何をすべきか。
 著者の水村美苗さんの、本書上梓の問題意識は、以上のことに尽きます。内容は、表題どおりに挑戦的であり刺激的ですが、論旨は明快で説得力があり、奥が深くかつ広大な言葉の世界に、思わず引き込まれました。

 

 日本近代文学は、世界の傑作に肩を並べる「主要な文学」のひとつであり、非西洋世界では他に例はなく、その存在は奇跡だと、著者はいいます。明治維新以降、日本語が「国語」として早々に成立していたことが、このことを可能としました。この「国語」成立の歴史的条件は、①近代以前の日本の〈書き言葉〉が〈現地語〉として高い位置をしめ、成熟していたこと、②近代以前の日本に「印刷資本主義」があり〈書き言葉〉がひろく流通していたこと、③日本が西洋列強の植民地にならなかったこと、と三条件をあげます。こうした「国語」の早々の成立に加え、日本語で〈学問〉することができる〈大学〉の存在するようになったことが、日本近代文学成立に大きな役割を果たしました。著者は、日本近代文学黎明期の作家たちが、凄まじく異様なほどに、東京帝国大学在籍者であったことを指摘します。そして、この作家たちは、〈普遍語〉としての西洋語と〈現地語〉としての日本語の二重言語者であり、「翻訳を通じて新しい〈自分たちの言葉〉としての日本語を生んでいった。その新しい日本語こそ〈国語〉―同時代の世界の人々と同じ認識を共有して読み書きする〈世界性〉をもった〈国語〉へとなっていった」のです。こうした二重言語者である作家の象徴として漱石が紹介されます。
 しかし、日本語と日本文学の現状は、「遊園地のように、すべてが小さくて騒々しく、ひたすら幼稚な光景」と著者には、見えます。日本語の「亡び」を感じる所以です。それは「文学の終わり」の予感です。その歴史的根拠三点。①科学の急速な進歩―「人間とは何か」の問いへの回答を科学に求める。②〈文化商品〉の多様化―とくに映画とテレビ。「小説は〈文化商品〉の王座から転げ落ち」ました。③大衆消費社会の実現―〈文学価値〉と〈流通価値〉の齟齬。これが「幼稚な光景」の背景。
 しかし著者は、「文学が終わることはあり得ない」と強く断じます。「人間には〈書き言葉〉を通じてのみしか理解できないことがある。〈書き言葉〉を通じてのみしか得られない快楽もあれば、感動もある」。また、「一度〈書き言葉〉を知った人類が、優れた〈書き言葉〉、すなわち〈読まれるべき言葉〉を読みたいと思わなくなることはありえないからである。ことに〈叡智を求める人〉が〈読まれるべき言葉〉を読みたいと思わなくなることはあり得ない」。
 日本語の「亡び」に関係する「ほんとうの問題は、英語の世紀に入ったことにある」のです。しかも英語は、インターネットによって、〈普遍語〉の地位を不動のものにし、かつ永続的なものにしました。〈大図書館〉の話は、衝撃的です。スキャニングとサーチエンジンの技術によって、世界で年間百万単位の本がデジタル化されて読み取られているとのこと。著者は、英語の〈図書館〉こそ今後最も充実していくだろうと予測します。英語が、現在も今後も、最も〈読まれるべき言葉〉だからです。〈叡智を求める人〉は、〈普遍語〉である英語に限りなく惹かれていきます。〈世界性〉から取り残され、〈世界性〉を失った日本文学は、〈叡智を求める人〉は読まなくなります。「果たして漱石ほどの人物が・・・わざわざ日本語で小説なんぞを書こうとするだろうか。・・・日本語で書かれている小説を読もうなどと思うであろうか」とまで著者は言い切ります。まさに、日本語と日本文学の運命は、危うくなっているのです。
 ではどうするか。
 まず英語教育について。「国民総バイリンガル社会」を目指すのではなく、「国民の一部を優れたバイリンガルに育てる」こと。
 そして国語教育。「学校教育を通じて日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべきである」との前提で、「日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべき」だとします。そして〈叡智を求める人〉が〈普遍語〉である英語に吸収されてしまうのは仕方ないとしても、そのような人が「日本語に戻っていきたいという思いにかられる日本語であり続けること、かれらがついにはこらえきれずに現に日本語へと戻っていく日本語であり続けること、さらには日本語を〈母語〉としない人でも読み書きしたくなる日本語であり続けること」を祈るように書きとめています。

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