加藤周一さんの遺した言葉
評論家の加藤周一さんが12月5日、亡くなられました。1970年代から幾冊かの評論集を読み、最近では朝日新聞の「夕日妄語」を楽しみに読んできました。これらの作品は私にとって、それぞれの時代の日本と世界の出来事や事象を読み解く、羅針盤のようなものでした。古今東西の思想と文学と芸術をこよなく愛し、言葉の力を信じ、平和を求め続けた、まさに現代日本を代表する偉大な知識人でした。
日曜日夜、NHKのETV特集「加藤周一 1968年を語る~『言葉と戦車』ふたたび」が放映されました。加藤さんは、入院直前の今年夏、「どうしても語り伝えたいことがある」としてインタビューに応じ、1968年を思い起こしながら、閉塞感に押し潰されようとする現在の日本と世界の人々に、最後のメッセージを遺されました。加藤周一さんへの哀悼の気持ちをこめて、インタビューで語られたメッセージを、書き留めておきます。
番組は、加藤周一さんのインタビューを中心に、1968年に世界で共時的に起こった「プラハの春」「ヒッピーとベトナム反戦運動」「パリ5月革命」「全共闘運動」の映像フィルムと、これらの出来事を取り上げた加藤さんの著書『言葉と戦車』からの引用によって編集されています。以下の加藤さんのメッセージは、インタビューで語られたことだけを、テレビ画面に映る文字テロップも使いながら、文章化しました。加藤さんの言葉そのままでない箇所もあります。
はじめに
今の日本には、閉塞感がある。それは表現の方法を見い出していないし、仕方ないとなっている。それが暴発すると、論理的でない面が出てくる。
1968年の世界のわかものたちにあった閉塞感は、現在に通じるものがある。68年は、単なる過去ではない。68年は、重要なターミングポイントになった年だ。
オバマのCHANGE
オバマが選挙でChangeといった。何を変えるかではなく、ただ変えるということが、シンボルになった。彼が見抜き直感したのは、みんな変えたいという瀰漫(びまん)したアメリカ人の感情。あれだけの反応を引き起こしたのは、どこかで深い現実に触れているからだ。
パリ5月革命
68年パリ街頭のスローガンも、Change la vie !(生活を変えよう!)だった。オバマのChangeと似ている。フランスやドイツは、批判的で鋭かったが。
プラハの春
ドプチェクの自由化は、チェコ・スロヴァキアの人々にとっては、天国に昇るような希望に溢れた変革だった。まったく新しい世界が成立したことへの支持は、プラハを中心にあった。プラハで会った作家たちは「これで何でも書ける、自由だ」と喜んでいた。「2000語宣言」が出された時には、知識人たちは、おもしろいが大変重要なことを云っていた。「社会主義を批判しても、誰も何とも云わない。いわんや逮捕されることはない。資本主義も社会主義も、同じ街で自由に批判できるところは、世界でただひとつ、プラハだけだ。人類は初めて、『自由』をプラハで経験しつつある」。精神的にはほとんど「踊り」と「祝祭」に近いような感じだった。
こうした知識人たちに対して、ある中年の女性が「これは行き過ぎだ、長続きしない」と懸念しているのを聞いた。しかし知識人たちは、「ソ連に反対しているのではない。よりよき社会主義をつくろうという共同の願いであり、先端的な現われが、プラハの春だ」といって、中年女性の懸念を一笑した。
ワルシャワ条約機構軍のチェコ・スロヴァキア侵攻
ソ連軍のプラハ侵攻から結晶化した私の考えは、社会主義の未来がダメになった、希望が絶たれた、ということだった。自由な社会主義が成功しておれば、現在の資本主義やソ連社会主義よりも優れた体制が、小国ながらこの国にできていた。これで、自由な社会主義の可能性は、当分なくなった。一晩でなくなった。
ウィーンに近いブルノからの地下放送
私の「プラハの春」の結論は、「言葉」と「戦車」の対立だった、ということだ。「言葉」に関する限り、チェコ・スロヴァキアは100倍の力を持っていた。弾圧は、「暴力」の側の敗北の印だ。銃弾だけで行われる戦争はない。戦争は「言葉」と「弾丸」の2つの組み合わせからなっている。言葉の力が大きくなると、軍隊は縮小する。戦争になれば、軍事的に愛国心、膨張主義、国のために他の人間の人権を蹂躙し、市民の権利をどんどん狭めていく。しかし、「言葉」による戦いで、こうしたたくらみを抑えることが可能だ。
アメリカ・ヒッピーズとベトナム反戦運動
中産階級の価値に対する反抗は、アメリカでいちばんでてきていた。世界の学生運動の底のほうに澱んでいたのは、「傷つけられた社会正義」だ。正義と関わりながら働く可能性がないことへの不満が噴出していた。
全共闘運動
東大の組織そのものが、軍産体制に組み込まれていた。学生の行動は、正義の実現ということだった。マルクス主義の影響を強く受け、独占資本主義と軍産学共同に対する批判であった。世界に先駆けた「軍産体制」批判は、日本の学生運動の名誉であり、その意義は、現在なお生きている。
(ここでテレビカメラは、今年の東大駒場祭の模様を映し出しました。「防弾チョッキ試着会」のシーン。自衛隊員が実際にイラク戦争で着用したという。防弾チョッキを試着した学生は、屈託なく笑っていました。)
両大戦間と1968年
第一次世界大戦は、社会的問題でも芸術的問題でも、主要な転換点になった。大戦で1000万人もの大勢の人が死に、歴史的なモニュメントが破壊された。しかし、社会は変わりきらなかった。この両大戦間に、現状を変えたいという雰囲気が、段々に高まっていった。このときに似た閉塞感が、68年のアメリカでもパリでも、漂っていた。生活全体を変えなければならない。このまま惰性でいくのはよくない。そして今、20世紀から21世紀へ積み残された閉塞感が、われわれを覆っている。
秋葉原通り魔事件
彼を殺すように招いた力は、思想ではなく、もっと漠然とした定義しがたい閉塞感だ。働いても良くならない、満足できない、そうした人が、突然行動に出る。天から降ったような気がしない。下に澱んでいたものが、急に爆発した、絶望的な爆発だ。
9条の会
老人の力は、過去に何があったのかをよく見定めて、伝えていくことだ。聞きたい人には、学ぶことができるように用意すべきだ。
(カメラは、森の中を歩いていく加藤周一さんの後姿を、映し出します。背をまるくし、杖をたよりに前屈みに歩く加藤さんは、重篤な病と闘うひとりの老人です。インタビューをうける加藤さんの顔も、すこし浮腫(むく)んだようであり、いつも厳しく鋭い眼光も、涙が溜まったようで、こころなしか微弱でした。しかし、40年前の記憶をゆっくりと時間をかけて蘇らせ、そして現在の情況と重ねながら最後のメッセージを伝えようとする意志は、いつもの加藤周一そのひとでした。)
最後のメッセージ
段々システムが強くなって、個人の影響力が後退する。専門分化が進んで、全体として人間的に、大きな方針や行き先を指示できる人がいない。明治維新以来、日本は、非人格化、非個人化、非人間化を進めてきた。その代価を払って、経済的発展や軍事的な力を持つようになった。そこには、思想的な教育の問題がある。
いま知識人は、思想的影響を及ぼすことが大事だ。まず、事実認識、何が起こっているかを理解すること。人間的感覚による世界の解釈の仕方を伝えること。つぎに、だからどうしょうかと指針をだすこと。人間らしさを世界の中に再生させるためには、そのことを意識し戦わなければならない。そして、戦う前に、何が相手なのか、敵なのかを理解することが大切だ。
はたして、加藤周一さんの最後のインタビューを、十分に、伝えることができたかどうか。恐らく、半年後か一年後くらいには、再放送になる可能性があります。チャンスがあれば是非、見ていただきたい番組です。
あらために、加藤周一さんのご冥福を、心からお祈り申し上げます。
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