冬の京都
先週末、大学の同窓会に出席するため、京都へいきました。この地に住んでいた母が、群馬の我が家に住むようになってからは、京都へは帰郷というより旅行といった気分のほうが強くなりました。しかも、寺の経営する旅館(宿坊というより割烹旅館)に泊まるとなると、一層その感が、強くなります。
会が始まる前に、友人2人とともに、東本願寺別邸の渉成園(枳穀邸)を訪ねました。京都駅から歩いて10分ほどの市街地にある広大な池泉回遊式の庭園です。
門をくぐった正面に、石臼や切石などのはめ込まれた石垣があり、不定形のデザインは斬新で、おもしろい。石臼は、この庭園で茶会が催されることを、暗示します。組石は、自然石よりも人の手の加わったものが多いようです。その昔、消失した建物の礎石も使われています。
北の入口へのアプローチには、白梅と紅梅が、場所を得て美しく咲き誇っており、その足下では日本水仙が芳香を漂わせていました。冬とはいえ、京都は春の装いに忙しい。
庭園に入って始めに、滴翠軒(右側)と臨池亭という、まさに池の庭園を眺めるためのような建物がありました。座敷に腰掛けて、煎茶をすすりながら山水画のような庭を眺めれば、さぞかしここちよいだろうな、と思いました。
庭の奥には、小さな滝から清水が落ちていました。渉成園の広い池泉の水口にあたるのでしょうか。水は以前は、琵琶湖疏水から引いていましたが、今は地下水にたよっているとのこと。
茶園を通りすぎて園路を回遊していくと、屋根のある橋に行き当たりました。回棹廊(かいとうろう)。この橋のたもとには、紫色の平戸ツツジが咲いていました。アセビの淡いピンクの花も、今が満開でした。
小路沿いに石組みの井戸がありました。いまは水が枯れていましたが、その昔、この井戸から水を汲み、茶室へと運ばれて茶会に供せられたのでしょう。
庭の中心あたりに、ビャクシンの枯れた古木が、悠然と立っています。山の自然には、枯れ木は当然あるのですが、庭園に枯死した古木をとり入れた例は、他に知りません。恐らく、落雷で木が倒れ、そのまま枯れたのでしょう。意図せずにできた景観は、あたりに風格すら漂わせています。
二階建て茶室の南側路地には、蹲踞(つくばい)が組んであります。曇り空からいっとき陽がさし、杉苔に囲まれた石燈篭や手水鉢を照らし出しました。狭いながらも清潔で美しい空間です。
池にせりでた漱沈居という茶室を眺めていたとき、「あら皆さん、会議が長引くのね」と云って、年のころ70前後の女性3人組が近づいてきました。写真を撮りたいので、さっさとそこを退け、ということでした。気のいい友人は、彼女たちに写真を2枚も撮って差し上げました。「私たちと同じ3人組ですね」という声を聞いたときは、気持ち悪くて逃げ出したくなりました。
印月池にかかる侵雪橋の眺めは、東山を借景にしたここ渉成園の、最も美しいポイントのひとつ。しかし、東山に代わりラブホテルが、背景に座っています。園を取り囲む樹木も、年々高めに剪定されているようですが、残念ながらビルの高さにはかないません。30年ほどまえ、初めて平泉の毛越寺庭園を訪ねたとき、大覚寺・
大沢の池に勝るとも劣らない回遊式庭園に、心ときめかした経験があります。しかし、寺の裏のほうから、グォーという持続音が聞こえてきて、それが高速道路からの音だとわかり、大いに興ざめしたことを思い出しました。庭園は、贅沢ゆえに価値があると、確信します。ここ渉成園も、建物も庭園も贅が尽くされており、それが公的に開かれていることに、幸福感を覚えるのですが、邸外にそびえる醜悪なビルを取り除くまでの贅沢は、許されないものでしょうか。
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