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2009年2月20日 (金)

自分たちで生命を守った村

P10508671  今週の火曜日、盛岡出張のおり、旧沢内村を訪ねました。学生時代に読んだ菊地武雄著『自分たちで生命を守った村』(岩波新書 1968年刊)の舞台です。沢内村(現・西和賀町)は1961年、全国に先駆けて1歳未満・60歳以上の医療費を無料化し、翌62年、全国の自治体で初めて乳児死亡率ゼロを達成しました。戦後民主主義、とりわけ憲法25条の生存権(国民の権利)と社会福祉(国家の義務)を先駆的に実現した、東北の小さな村での大きく輝かしい出来事でした。

 朝8時過ぎ盛岡を出発、盛岡・横手線を通って奥羽山脈の東麓にある旧沢内村に向かいました。春を思わせる暖かい週末から一転して、週の明けた前日は吹雪き、盛岡市内から山地に向かうにつれ、降雪量も多くなってきます。雫石町を通り過ぎ1時間ほどで、山伏トンネルに着きました。トンネルの出口脇にあった記念碑には、「昭和13年竣工」と刻まれていました。この山伏峠を越すと、旧沢内村です。南北28㎞の沢内街道(盛岡・横手線)を中心に開けた山間の盆地です。私たちの乗る車は、トンネルから南へ下っていきました。P10508711
 旧沢内村に入って間もなく、除雪車に出会いました。昨日降った道路の雪も、たちまち道路の脇へと吐き出されていきます。車の通行には、全く不便を感じさせません。この除雪車こそ、旧沢内村の「生命行政」の最初の取り組みの成果でした。1957年第18代沢内村長に当選した深沢晟雄は、「豪雪・多病多死・貧困」の3悪P10509231追放を目指し、まず取り組んだのが、豪雪からの解放。58年ブルドーザーを1台購入し、早速除雪を開始しました。その後もブルを買い足し、「病院のジープが一日も休みなしに運行するまでに道路を雪から解放」(前掲書『自分たちで・・・』)しました。P10508951
 除雪された道をゆっくり車を走らせていると、蛭子森というバス停の後ろに、姿の美しい木製の火の見櫓(やぐら)が建っていました。櫓の頂上部には、半鐘が据え付けてあり、現在も十分に使うことができそうな感じでした。昨年の秋、福島県のある農村で、火の見櫓のある風景に魅せられてから、旅先で注意して見ているのですP10508941 が、その素朴な建築美は個性的で、周りの景色と溶け合って、懐かしい景観を見せてくれます。現在、携帯電話の電波塔が、日本各地で(ここ旧沢内村も例外でなく)建てられ、電力会社の鉄塔とともに、農村風景をいともたやすく壊しています。この電波塔は始めから、造形美を追求された形跡はなく、なによりも全国一律で個性のなさが、腹だたしい。P10509281
 深沢村長の「生命行政」の中心施設、沢内病院に寄りました。お年寄りの患者さんたちが、30名ほど談笑しながら、診察を待っていました。この病院こそ、1957年から展開された「多病・多死」からの解放のための運動の中心地でした。村長就任の57年には乳児死亡率70(出生千人比)だったのが、5年後の62年にはゼロをP10509261記録しました。
 病院の前庭には、雪囲いのなかに深沢村長の胸像がありました。雪のため近くに寄れませんでしたが、書物で読み知った村長の人柄をしのばせています。温厚だが妥協を許さない意志の強い人でした。P10508791
 道路沿いに、茅葺の農家が一軒ありました。恐らく、60年代以前の農家住宅は、ほとんどこうした建物だったかと想定されます。前日盛岡駅の本屋で買った及川和男著『村長ありき-沢内村 深沢晟雄の生涯』 には、それまでの不衛生な住生活の改善のために、村長が病院長に、問題解決のための住宅設計を要請したことが紹介さP10508841れています。暗く冷たい不衛生な住宅から、明るく暖かい健康的な住宅へ。傾斜の強い大屋根、南面は二重窓で広い開口部、高床式等に設計されました。恐らく、病院長の設計した住宅は、写真のような農家だったのでしょう。最早ほとんどの住宅が、このような感じになっています。P10509331
 碧祥寺の壁に、橇が吊りかけてありました。橇といえば、前掲書2冊にともに、箱橇のことが印象深く記述されています。
 「冬、死者が出ると橇に乗せて隣村へ運んだ。・・・重篤の病人を運ぶ場合は箱橇が使われた。行きには息のあった者が、帰りは冷たいむくろになってみじめに戻ってくる。・・・「ああ、また箱橇がいく・・・・」」(『村長ありき』)。
P10509401 碧祥寺の近くの浄円寺を訪ねました。およね地蔵がありました。これは、江戸時代、凶作の苦しむ村民の年貢米の身代わりに、村一番の美人であったおよねが、代官のもとに輿入れしたという伝説にもとずくもの。およね伝説は、沢内甚句にも唄われています。
  
 沢内甚句
 沢内三千石 お米の出どこ 
 桝ではからねで コリャ 箕ではかる
 
 お米は「およね」、箕は「身」。沢内甚句は「凶作エレジー」だと、菊地武雄さんはいいます。
 1時間余の短い滞在でしたが、深沢村長の「生命行政」の一端をうかがうことのできた旅でした。旧沢内村をあとに、秋田県の横手市に向かいました。

 深沢村長の理念を的確に表現した村の文書があります。前傾の『村長ありき』から引用します。
 「幸福追求の原動力である健康を、人生のあらゆる時点で理想的に養護するため、
 ①すこやかに生まれる(健全な赤ちゃんを産み育てる)
 ②すこやかに育つ(心身ともに強靭で、聡明な人づくり)
 ③すこやかに老いる(健康態老人つくり、不老長寿、生存限界年齢・自然死への接近)
この3目標実現のために、
 誰でも(どんな貧乏人でも)
 どこでも(どんな僻地でも)
 いつでも(24時間、365日、生涯にわたって)
 学術の進歩に即応する最新・最高の包括医療サービスと、文化的な健康生活の保障を享受することが必要。」(沢内村策定『地域包括医療実施計画』から)

 このたびの旧沢内村への旅と読書は、戦後民主主義を築き、日本国憲法の理想を実現するために、高水準の論理的理性と倫理観をもち、なによりも情熱的に仕事を進めた人びとのことを知り、心の底から深い感動を覚えました。かつて「戦後レジームからの脱却」をスローガンにした首相がいましたが、戦後レジームの草の根の堅固さは、そう簡単には突き崩すことはできないと、強く確信しました。

 

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