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2009年3月 1日 (日)

那須国造碑

P10600921  多胡碑(群馬)や多賀城碑(宮城)とともに日本三古碑のひとつとされる、那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)をみるために、栃木県旧湯津上村(現・大田原市)に行きました。私の住む町に多胡碑がある縁で、他の二古碑も、一度は見ておきたいと思っていたのです。

P10600981 小雪の舞うなか、那須国造碑を神体として祀(まつ)る笠石神社を訪ねました。鳥居の奥に木の柵に囲まれた小さなお堂があり、そのなかにこの石碑がおさめられています。三古碑のうち国宝なのは、ここのものだけ。あいにく神主が留守だったので、実物を見ることはできませんでした。そこで、レプリカのある栃木県立「なす風土記の丘資料館」を訪ねました。この資料館は、「那須国造碑 その建立と発見」をテーマに、この石碑の碑文の解明や時代背景等を展示していました。以下の情報は、この資料館で得られたものです。
 入口を入ってすぐに、石碑現物大のレプリカが展示されていました。頭上に笠を被った独特の形状は、上野国の多胡碑と同様です。八溝山系でとれた花崗岩を材料としています。石碑は1678年、磐城の僧・円順によって発見され、領主水戸光圀の命により、調査のうえ保護され、現在に至っています。神社の周りには、いくつかの古墳が散在し、この地が古代の那須地方の中心地であったことをうかがわせます。
  
 碑文の冒頭の一部を、書き下し文で引用します。

永昌元年己丑四月、飛鳥浄御原の大宮より、那須の国造の追大壹なる那須の直(あたい)韋提(いで)は、評督(こほりのかみ)を賜はり、歳は次の庚子の年正月二壬子(みずのえね)の日辰の節(とき)にみまかりぬ。故、意斯麻呂(おしまろ)等、碑銘を立て偲びて・・・

 「永昌元年」は、中国の年号で689年。何故、中国の年号を使ったのか。資料館での説明は、①当時新羅が中国の年号を使っていた、②那須には新羅と関係の深い人がいた、この2点を理由としています。ウィキペディアの「元号一覧」には、「686年天武天皇崩御で使用停止、以後15年間元号が中断」との記述があります。この両方の情報を聞けば、中国の年号使用の理由が、よりはっきりとします。日本史教科書で、元号の始まりを645年の「大化」だと習った記憶がありますが、それから40数年後のこと。まだまだ日本社会は、国産元号に馴染んでいなかったのでしょうか。国家誕生間もない日本と大帝国唐時代の中国の上下関係もあったかもしれません。
 「那須国造」は、那須という国を治める豪族。「追大壹」は、冠位四十八階で定められた四十五番目の階位。長官韋提が、郡役人(評督)に任命された。これには異説があるようです。「那須直韋提評督」が、「那須国造追大壹」を賜わった、という。これが、古代史の大論争につながっているとのこと。今回このブログを書いていて初めて知りましたが、これ以上の言及は、私の能力をはるかに超えます。日本三古碑の見学を機に、古代史の勉強をボツボツしていきたい(願望)ものです。
  
 

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