在宅での介護と看取り
先週の水曜日、母が亡くなりました。翌日の夜、組内と身内の者が集い、カトリックの司祭による通夜式がおこなわれました。会場のホールには、フォーレ作曲の「レクィエム」が流れ、ささやかながら荘厳な雰囲気の中で、母の永遠の眠りを祈りました。
「レクィエム第5曲アニュス・デイ 」の歌詞(大谷千正訳)を引用します。
神の子羊 世の罪を除きたまえ
主よ かれらに休息を 与えたまえ
永遠の休息を
主よ 永遠の光明を かれらの上に 輝かせたまえ
とこしえに 主の聖人らとともに
慈悲深き 主よ
主よ 永遠の休息をかれらに与え
たえざる光を かれらの上に 照らしたまえ
昨年の初秋、母は終末期の胃ガンである、と告知されました。そのことは本人には知らせず、また、高齢のため治療が困難であるとして、自然に任せることにしました。これは、医者の診断と指導に基づき、家族が選択したことです。そして、できる限り在宅で介護しょうということにしました。掛り付けの開業医・訪問看護士・ケアマネージャーの3人がチームとなり、それに緩和ケア病棟をもつ総合病院のバックアップを受けて、母の在宅介護が始りました。その介護の中心はいつも、私の家内でした。
当初は従来どおり、デイサービス・センターへ通い、医院に通院していました。嘔吐は繰り返していたものの、食欲はさほど落ちず、体重の減少や苦痛もなく、比較的平穏な生活をしていました。しかし年明け以降、食事量は極端に減り、体力は急速度で落ちていきました。このころ、月1回の医者の往診とケアマネージャーの訪問、そして週1回の訪問看護士による介護を受けていました。
食事量の減少と体力の衰退は、日を追うごとに進んでいきましたが、痛みや苦しみを訴えることはなく、毎日の入浴も可能だったため、生活の平穏さは維持し続けました。3月の中旬、京都の姉が、介護の応援のため、1週間滞在しました。姉の帰宅前日、訪問介護士から、さほど遠くない時期に、再び来ていただくことになるのではないかと、示唆されました。
彼岸明けの日はじめて、身体の痛みと不眠とを強く訴えました。医者に相談し、処方された睡眠薬1/2錠を与えたところ効果があり、夜はぐっすりと眠りました。しかし翌日の夜は、同じ薬を1錠投与したところ興奮して騒ぎ、深夜2時間以上にわたり、眠れぬまま痛みを訴え続けました。再び医者に相談したところ、この睡眠薬の投与は中止し、緩和ケア病棟への入院を選択肢の一つとして考慮するように言われましたが、家内と相談のうえ、在宅介護を続けることとしました。3月27日、入浴後(最後の風呂となりました)、緩和ケア病棟の医者から処方された持続性がん疼痛治療剤一枚を胸に貼り付けました。この日を含む3日間は、この薬が効いたようで、痛みや不眠を訴えることはありませんでした。
28日(土)から31日(火)にかけての4日間は連日、身内の者と母の友人たちの訪問を受けました。長男・孫・ひ孫の3人がきた時は、「こんな天気のいい日に、寝ているのは勿体ない」といって車椅子に座り、上機嫌ではしゃぎました。翌日、別の孫とひ孫が来たときには、大きくゆっくりと腕を振り回しながら、「昔から私は踊りが好きやった」と、この日も上機嫌でしたが、帰ろうとする孫をつかまえて、「泊まっていかんのなら、あんたなんか嫌い」と言い放ちました。
昔からの親しい友人がふたり、京都から見舞いに来てくれました。カトリック教会の仲間です。母は、ひとりの方については、正確に名前を覚えていたのですが、他の方については、私の娘と見間違いました。が、何年ぶりかの再会を、お互いに喜び合い、自分が健康であることを自慢しました。夕食と祈りをともにし、その日はお願いして泊まっていただき、そのことも母は、ことのほか嬉しかったようです。また母は、教会への献金をふたりに依頼し、そのことがいたく満足だったようです。
極端に相反する反応。
客の宿泊した深夜、母は荒れました。10日ほど前から家内が、母の部屋の隣室で寝起きしていたのですが、大声で痛みを訴える母の傍に寄っていった家内に向かい、枕元にあったタオルを投げつけて怒りをあらわにしました。身体の向きを変え、背中を撫で、慰めの言葉をかけていったん収まり、家内が寝床に着くと再び、激しく家内の名前を呼び・・・・・、と同様のことが4時間にわたって繰り返されました。
客の帰った夜、座敷の籐椅子に座った母は、家内を相手に、自分の健康法を舌をもつれさせながらも雄弁に語り、教会への献金にまつわるお金の計算(1万円+5千円=2万3千円のような計算)を執拗に繰り返しました。その様子は大変知的で、冷静そのものでした。フラッシュをたきながらカメラを向けた私にはほとんど無関心で、熱心に語り続けました。この写真は、生前最後の写真となりました。
4月1日、前日までの反動か、母は朝から極端に落ち込み、ついに目を閉じ口を大きく開いたまま「はあ、はあ」と喘ぐような息遣いとなり始めました。夜には、呼吸は5,6秒ほどの間隔をあけて途切れ途切れとなり、顔の表情も険しく厳しいものとなりました。このとき初めて、母の具体的な死を予感しました。こうした状況が2,3,4日と続き、再訪を促した姉が、6日から来てくれました。姉と家内と私の3人での介護態勢となりました。この頃、目を覚ました時、手を握る私に「私の人生は幸せだった」といいました。「どこへも行きたくない」ともつぶやきました。4日に15番目のひ孫が生まれ、この日から、母は絶食状態となりました。
姉が来た頃から、喘ぐような息遣いが消え、「イタイ、イタイ」「ミズガホシイ」「オコシテホシイ」「ヨコニナリタイ」との要求が、いつ果てることも昼夜もなく、次から次へと繰り返されました。家族3人が、順番に仮眠を取りながら、介護し続けました。12日頃からは、介護者は仮眠ではなく、母のベッドに付き添って話し掛けながら、手を握り、背中を撫で、ベッドの上に起こして座らせ、そしてまた横に寝かせ、寝返りを打たせるといった介護をするようになりました。このような状態が、14日疼痛治療剤を2倍に増やし、16日モルヒネ系製剤を併用するまで続き、この間の10日間前後が、介護する私たち3人には、身体的に一番きつかった時期かもしれません。しかし14日以降は、「ミズガホシイ」とだけ訴えるようになりました。
絶食した母が口にするのは、水だけです。当初は、吸い口器から口中に水を注いでいたのですが、誤飲の恐れが出てきてからは、ガーゼに水を含ませて数滴の水を注入しました。それでも誤飲の心配があったため、1滴入れてゴクンと飲み干すことを確認してから次の1滴をいれ・・・・・と繰り返すようになりました。亡くなる直前の数日間は、その水も飲めなくなり、氷水を浸したガーゼで、唇と歯茎を湿らせるだけとなりました。
15日、喉がゼロゼロと鳴り始めたため、吸引器によって日に3,4回、喉に詰まった痰や唾を取り除き始めました。そのうち、強い悪臭を放つ胃からの分泌物の除去も、必要となってきました。これらはすべて、訪問看護士から使用法を学んだ家内の仕事でした。この日、訪問看護士によって髪と足を洗っていただきました。午後、姉と家内と私の3人が揃って母のベッドに寄り添っていたとき、最早ここまでといった瞬間があり、姉が泣き、私もつられて泣きましたが、母は「フゥーッ」と息を吹き返し、「あれっ、生き返った」と、3人で笑いました。
16日、本人の希望で、これまで嫌って一度も使ったことのなかったポータブルトイレで、便を出しました。4日から絶食している母の腸から、少なからぬ量の便が出て皆を驚かせました。
17日、「お世話になりました」と姉に手を合わせました。家内に向かっては、「特にAちゃんには、お世話になりました」といいました。私には「兄弟仲良くするように」といいました。
18日朝、介護していた姉に突然、「おなかがすいた」と訴えました。牛乳をガーゼに浸し、2,3滴口中に注ぎました。「お茶ほしい」ともいいました。茶もガーゼに浸し、1滴口に注ぎました。これ以降、水も口に入れなくなりました。
19日以降は最早、一切口をきくことはなく、軽く口を開けて「アーアーアー」というばかりで、目の焦点も見失いました。しかし、呼吸は乱れることなく規則正しい。睡眠時間も長くなり、夜起こされることもなくなりました。こうして、22日を迎えました。
朝起きると、数日前から始めたカトリックの祈りを、母の耳元で唱えました。「父と子と聖霊のみなによってアーメン」ではじまる祈りです。顔の上で泳がせている手を取って握り、祈りを始めると、微かではありますが、母が握り返してくる感じがしました。祈りのあと姉とともに、かねてから疑問に思っていた祈りのある一句について話していたところ、姉は母が微笑んだといい、私は母が間違いなく微笑んだと感じました。
昼前、訪問看護士が訪れ、家内とともにしもの世話をしたあと、血圧や心拍数等を計りました。血圧は70まで下がり他の計数からみても、いつ逝かれてもおかしくない状態だ、と告げられました。看護士の「好きな音楽を聞かせてあげて」という示唆もあり、ソプラノ歌手鮫島有美子さんの「日本の歌」を静かにかけました。そして「サクラ サクラ」とソプラノの声が小さく部屋に響き渡ったときは、母は音楽のほうに顔を向け、穏やかな表情となった感じがしました。その2時間ほどあと母は、姉と家内の見守るなか、そして息を引き取る瞬時に私も立ちあい、静かに永遠の眠りにつきました。不思議と姉も家内も私も、泣きませんでした。
以上が、在宅での母の終末期の介護と看取りの様子です。胃がんに対しては、手術・抗がん剤投与・コバルト照射など、一切治療は施しませんでした。高齢の母にとつては、副作用による苦痛のほうが、懸念されたからです。食事ができなくなってから、胃ろうによる食物の注入や点滴の利用も、一切しませんでした。これも、苦痛を与える可能性が大きいため、母の終末期ケアとして相応しくないと考えました。食物を絶ち水すら飲まなくなった母に残されていた筋肉と脂肪は、手のひらと足の裏ぐらいで、あとはほとんど骨と皮だけのような状態でした。しかし、母が苦痛を味わい死の恐怖に打ちひしがれてのは、7ヶ月に及ぶ終末期ケアのあいだの、最終段階のほんの10日前後に過ぎません。ほとんどの期間を、平穏に過ごすことができました。しかも、亡くなるまでの最後の数日間は、笑みを浮かべる余裕すら感じさせました。そして母は、「自然死」で永遠の眠りにつきました。この過程は、母にとっても、介護する家族にとっても、悔いの無い日々であつたと確信します。私自身は、人の死を、母を通してじっくりと見て、感じて、学びました。遠くない日にくるであろう自らの老いと死を、どのように迎えることがもっとも「私」らしいのか、考えるヒントが母の死から得られるかもしれません。キーワードは、「自然死」。
お母さまは配慮された最後を家族に看取られ、幸せでした。
自然死。それが最もめざすべき人の最後ではないかと、私も義父の在宅介護からはっきり学びました。認知症を発症し在宅介護らし期間が二年、昨年春から大腿骨を疲労骨折して、手術やリハビリで11ヶ月は病院と施設にお世話になりましたが、今年3月から寝たきりでも在宅介護に切り替えて、義母と一緒にヘルパーさんや看護士さんの助けを借りて看てきました。義父は心臓病や癌もあり、認知症も徐々に進み緑内障でほとんど見えませんでしたが、幸いなことに人格が変わる事無く最後まで声がけに、その時々の体調で可能な限り応えてくれました。
母の手料理を美味しく食べられていたのは6月末頃まで。それ以降は、だんだん飲み込めなくなり、食べ物を受け付けず、今日までほとんど水分だけの毎日になりました。自然に逝くということは、義父が水分を自分の口から飲む事も精一杯の状態、何も食べられないという現状、徐々に弱っていく姿に耐えることが必要でした。日々、義父の命が徐々に燃え尽きる様子を受け入れ、その状態に対応していくのは、家族にとって忍耐と辛抱がいりました。義父の死に行くさまを日々受け入れ支えていく。
在宅介護になって、本人の希望もあり、訪問診療の医師と相談して負担を掛ける検査や投薬、治療はほとんどしませんでした。いつまで生きられるのか長いのか短いのか、予想等つかないと思っていましたが、今日の午前中に逝きました。静かなあっという間の出来事でした。ろうそくが静かに燃え尽きるように逝けたのは、義父にとって何よりよかったと安堵しています。余計な苦痛を感じなように静かに過ごせたことに義母共々感謝しています。まだしばらく命が長らえるのであれば、きっと痰が絡んで呼吸困難の辛い苦しい思いをしたことと思います。
在宅介護だからこそ自然死にちかい最後を迎えられたと思います。病院にいたら、医療処置を施さざるを得ず、自然な死とはほど遠いものになっていたことと思います。
投稿: 歩いて生きてる | 2011年8月27日 (土) 17時57分