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2009年7月19日 (日)

我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか

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  東京駅日本橋口から無料のシャトルバスに乗って、北の丸公園にある国立近代美術館に向かいました。現在、ゴーギャン展が開催されています。パスは満員で美術館の混雑を予感させましたが、幸い作品を他人(ひと)の頭越しに鑑賞するほどの混みようではありませんでした。作品は、ゴーギャンのみの50数点で、ゆっくりと鑑賞することができました。

 私の知るポール・ゴーギャン(1848-1903)は、昔読んだサマセット・モームの『月と六ペンス』の主人公チャールズ・ストリックランドのモデルであり、一昨年来読み続けている池澤夏樹編「世界文学全集」に収められたマリオ・バルガス・リョサ著『楽園への道』の主人公ゴーギャンです。モームの月は「夢」、6ペンスが「現実」をあらわしていることは容易に理解できますし、リョサの「楽園」は南太平洋の島タヒチを指していることを知るのも、難しいことではありません。またゴーギャンの大胆に単純化された形態や色彩からなる作品は、素朴で感覚的であり、理屈抜きにのんびりと鑑賞することができます。
 ところが、「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」との哲学的思惟を迫る、しかも139×375cmという壁画のような大作を目の前にしますと、しばらくめまいのような感覚に襲われます。全裸と腰布だけの女たちが、地面の上に坐って、こちらを見ています。画面右側には、岩の上に赤ん坊が寝ており、逆の左端には、煤のように黒ずんだ老婆が、やはりこちらを凝視しています。画面中央では男が果物をもいでおり、その足下で、少女が果物を食べています。人びとの近くには、犬と猫と山羊と鳥とが、人間たちと同様に、無表情に地面に伏せています。画面後方には、まず両手を広げた女神像があり、そして体全体を覆うような長衣を着た女たちが、右側に向かって歩いています。背景では、幻想的な樹木が、奇怪な枝を広げています。
 この絵から、アダムとイヴの禁断の実と楽園追放の旧約聖書の物語を連想することは、さほど難しいことではありません。しかし、あの禁断の果実を採ったのは、イヴではなかったか。ゴーギャンのイヴは、どうみても女ではない。マリオ・バルガス・リョサは、『楽園の道』で、果物を採る人物の腰布のふくらみを「立派な睾丸と固くなったペニス」のようだとすら表現しています。楽園追放を暗示する赤い長衣を着たふたりは、アダムとイヴのように男・女ではなく女・女であり、またキリスト教絵画にある悲嘆にくれるふたりではなく、何やら真剣に語り合っています。キリスト教の世界から題材を借りながらも、内容は別の世界を表現しています。
 左端の老婆は、観者を凝視しながら、何を訴えているのでしょうか。ゴーギャンは、フランスの博物館で見たペルーのミイラから、この人物像を創作したということです。ペルーは、ゴーギャンが幼少期を過ごしたところ。死にいく老婆は最早、生きることをあきらめ、大地に返っていくことを、我々に告げているのかもしれません。
 美術館滞在中の大半を、この大作の前にたたずんで過ごしたのですが、時間が経つにつれてこの死にいく老婆の視線が、気になって仕方がありませんでした。「我々はどこへ行くのか?」。老婆の沈黙は、この答えのない問い掛けなのかもしれません。

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