盆の日々
盆の初日は、甘楽町轟の宝積寺の盂蘭盆会(うらぼんえ)合同供養祭に、家内とともに参加しました。本堂には、いつになく多くの壇信徒の皆さんが、集まってきていました。若い人たちも結構、参加しています。境内には2000本以上の竹やガラスの灯篭が並べられ、万燈会の催しがはじまっています。今年新たに加わった母の霊とともに、今は亡き近親者の霊を、心から供養をしました。
2日目には、母の墓参りのために、京都へいきました。金閣寺の裏山の一角に、カトリック墓地があり、母の遺骨は父のそれとともに、そこに埋葬されています。お盆は、カトリック教徒にとってもやはり、お墓参りが欠かせません。左大文字の裾野にある墓苑には、多くの信徒たちが、手に手に花をもって、墓参りに来ていました。仏教とカトリックの間を、ほとんど意識することなく無抵抗に、行き来する自分の姿は、ここ20年の行動パターンです。
翌15日は、兄に誘われて、京都駅近くの東寺へいきました。いつもは駅から眺めるだけでしたが、今回初めていきました。東寺といえば、子供のころの思い出があります。北野天満宮の近くに住んでいた私たちは、毎月25日の縁日「天神さんの日」を楽しみにしていました。しかし、21日は「弘法さんの日」で、その日が晴れると、「天神さんの日」に雨が降る、との迷信を信じていました。その昔、菅原道真と空海とが仲が悪かったため、と大人たちが教えていました。だから、21日の「弘法さんの日」には雨が降ることを、願いました。そんなことを、ふと思い出しました。
五重塔の大きさと姿の美しさは、私の好きな仁和寺の塔に匹敵します。高さ55mは、木造建築としては、日本最高だそうです。天を突き刺すように突っ立った相輪も美しく、幸い背景にビルが見えないのも、ほんとうに嬉しい。この五重塔の創建は、空海没後の9世紀末ですが、その後4度の火災にあい現在のものは5代目で1644年、徳川家光の寄進により建設されたもの。
火災といえば、旧食堂に安置されていた木造四天王立像が、凄い。1930年12月21日、終い弘法の日に、食堂(じきどう)が失火により焼失した際、国宝の四天王立像は本尊千手観音像とともに、燃えてしまいました。千手観音像は被害小さく、国宝を解除されませんでしたが、四天王立像は黒焦げ状態になり、国宝を解除されました。現在は、合成樹脂が注入されて食堂に安置され、参拝者と対座しています。
四天王像の四体は、食堂の正面左側にならんで安置されていますが、本尊から遠ざかるほど黒焦げの程度はひどく、左端の像は、ほとんど炭化しています。炭の塊となった四天王たち。こんな残酷な仏像を見たのは、初めてです。しかし、火によって顔を削がれ、身を焦がして縮んだと思われる体つきをみても、間違いなく四天王であることが、みてとれます。しかしその炭化した姿は凄まじく、鬼気迫るものがありました。四天王の足もとでのたうちまわる餓鬼たちは、火災の影響少なく、昔の姿をほぼ、留めていました。猛々しく荒れ狂う火炎のなか、眼をきっと見開いたまま耐えつくす四天王たちの姿を想像し、恐怖感に囚われるとともに、彼らを救い出せない人の無力さを、痛恨しました。
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