マルクスの眼で考える
自公政権が崩壊し、民主党を中心とした連立政権が発足して、間もなく1ヶ月が経とうとしています。日々のネットやマスメディアから発せられるニュースには、旧政権時代の1年分、否、10年分以上に相当するほど数多くの、重要かつ関心の高い項目が、並んでいます。それらは、鳩山内閣による、政権交代のパフォーマンスを超えた政治の質の転換を、予感させます。
こうした政治情勢を興味深くみながら、現代の政治と経済にプリンシプルにアプローチした、知的躍動感に富んだ極めて刺激的な新書に出会いました。不破哲三著『マルクスは生きている』(平凡社 09.5刊)。
本書は、経済危機や環境破壊が進む現代世界を、19世紀最大の思想家カール・マルクスの眼で考えてみよう、という不破哲三さんの野心作です。著者は、マルクスを「唯物論の思想家」「資本主義の病理学者」「未来社会の開拓者」といった三つの側面からとらえ、マルクスの思想と理論を追跡しながら、混迷し閉塞する現代世界を読み解いていきます。
「第一章 唯物論の思想家・マルクス」では、19世紀の唯物論・観念論論争に関して、20世紀の自然科学の飛躍的な発展によって、マルクス・エンゲルスの唯物論が、常識の世界となっていることが、簡明に解かれます。特にこの章では、生命科学や量子力学の成果が豊富に紹介され、マルクスやエンゲルスとともに著者自身が、自然科学に通暁していることを示してくれます。DNA、ニューロン、ビッグ・バン、素粒子、量子力学と、極めて広範囲な科学的素材を駆使し、「自然の全体像は、すべてのものに歴史があり、すべてのものが関連しあうという点で、たいへん弁証法的」であり「人間の生命も、人間の精神も、物質であるDNAと蛋白質、脳髄・神経細胞を基礎にして解明できるという点で、きわめて唯物論的である」と指摘しています。
現代日本に、最もビビッドに迫っているのが、「第二章 資本主義の病理学者・マルクス」です。まずマルクスの眼で現代日本の搾取を見ています。著者は、年間200時間を超えるサービス労働や過密労働による職業病・過労死の実態そして派遣労働者と派遣切りについて言及します。こうした日本の労働者のおかれた現状が、マルクスの描いた19世紀イギリスの労働者の状態を想起させます。学生時代に挑戦した私にとって、『資本論』のなかで比較的理解しやすかったのは、イギリスの労働者の実態について描かれた「労働日」という章でした。労働時間など工場法の実施状況を点検する工場監督官の報告が引用されていたからです。当事のノートに「労働日」からの引用がありました。「風習と自然、年齢と性、昼と夜にかんするあらゆる制限が粉砕された。・・・・・資本は飲めや歌えの底抜け騒ぎをした」。まさに21世紀はじめの、日本における労働者派遣法の制定は、「あらゆる制限を粉砕」=労働規制の緩和の結果ですし、昨年のリーマンショック以前の大企業経営者は、史上空前の利益を謳歌し、「飲めや歌えの底抜け騒ぎ」をしていたのです。
第二章では「搾取」のほか、「資本主義の『死にいたる病』-周期的な恐慌」と「究極の災害-地球温暖化」についても、マルクスの理論に立ち返りながら、その原因が解明されています。「マルクス」「資本論」「搾取」「恐慌」「地球温暖化」と並べると、経済学のテキストの中、あるいは経済史の話題としか思えなかったのは、つい最近だったような気がします。それがいま、我々の身の回りと同時に、世界のあらゆるところで起こっている事態であることを想起して、思わず慄然とさせられます。
本論とは離れますが、「日本社会の観察者・マルクス」という補論が、興味深く印象的でした。『資本論』のなかの日本社会の描写が、何に依拠して書かれたのか。著者の不破さんが1981年、国会で千島問題を取り上げるために幕末の歴史資料を、片っ端から読んでいた時、イギリス初代駐日公使オールコックの回想記のなかに『資本論』の日本描写のすべてを発見した、というものです。当事不破さんは、共産党委員長だったのでしょうか、大変多忙であったにちがいないのですが、国会活動の一環としても、たゆまない研究を怠っていません。著者の不破哲三さんは、マルクス同様、「人間社会の歴史に興味をもち、全世界的に知識の吸収につとめた・・・・・貪欲なまでの歴史研究への意欲」を強くもった政治家なのです。政治家ゆえに愚弄する風は、改めなければなりません。
(第三章 未来社会の開拓者・マルクス」については、紹介できませんでした)
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