中国の写真家 沙飛
今週初め前橋で、中国八路軍の従軍カメラマンだつた沙飛(さひ)の写真展を観ました。数日前の朝日新聞に紹介記事が掲載され、沙飛(1912‐49)が中国の報道写真家の草分けであり、魯迅やベチューンのデスマスクを撮ったことを知り、是非見たいと思っていたものです。
(写真は、写真展パンフレット表紙。万里の長城での戦闘1938年)。
1935年に上海で写真家としての本格的な勉強を開始した沙飛は、翌36年10月、魯迅を撮影する機会を得ました。木版画展示会場で、若い芸術家たちと語り合う魯迅を撮影したのです。魯迅は、右手に煙草をもち、穏やかな表情で、若者の話に耳を傾けています。しかしこの撮影の10日後、魯迅は急逝します。この写真が、生前最後の写真となりました。魯迅のデスマスクの写真も、掲げられていました。
この一連の写真によって、報道写真家としての沙飛が誕生したと、パンフは記しています。
1937年7月7日の盧溝橋事件を契機に、全面的な日中戦争が始りました。沙飛は、八路軍の従軍カメラマンとして、抗日戦争の前線に赴きました。写真展では、戦闘場面の写真に混じって、軍人に手をつながれたパシ゜ャマ姿の幼女の写真が、目を引きました。「聶栄臻(じょうえいしん)将軍と救出された日本人少女、栫(かこい)美穂子さん」(1940年8月)。八路軍が井陘(せいけい)炭鉱を攻撃し、日本軍を破って占領したところ、ふたりの日本人幼女が発見され、同将軍によって、手紙をつけて日本軍に送り届けられた、と説明されています。
日本軍によって殺害された中国人遺体の写真が、1枚だけ展示されていました。首と後ろ手が縄で捕縛され、裸体のまま地上に放置された、若い男の遺体です。未だ生気を保っているかのような肌は、殺害されてさほど時間がたっていないことを、示唆しています。殺害写真は、この1枚だけでした。
解放区で開催された運動会や芸術祭の模様を撮った写真は、周囲を日本軍に囲まれた戦場でのこととは、にわかには信じられません。トルストイの「復活」の舞台写真は、本格的な芝居が演じられていたことを、教えてくれます。
白人の医者が、外科手術を施している写真がありました。カナダ人医師、白求恩(ベチューン)。中国革命に生命をささげたベチューンは、自己犠牲と国際連帯の象徴として、中国の内外に伝えられています。30年前に読んだスチュアート著『医師ベチューンの生涯』(岩波書店1978刊)を書棚から取り出してページをめくると、今回の写真展にも出展されている、星条旗に包まれたベチューンの遺体写真が、掲載されていました。この本には、カナダ国旗がなかったために星条旗を使った、とあります。
このベチューンを記念して作られた白求恩国際和平病院で、沙飛にとって取り返しのつかない、大変不幸な事件が起こりました。戦中から北京陸軍病院に勤務し、解放後、八路軍に参加して白求恩国際和平病院の内科医として医療活動に当たっていた日本人医師津沢勝を、結核で入院していた沙飛は1949年12月、ピストルで射殺しました。沙飛は直ちに軍事裁判にかけられ、尊敬していた聶将軍によって死刑判決を受け銃殺されました。14歳のときの北伐戦争から10年以上にわたる抗日戦争への従軍のなかで、身体とともに精神も病に冒された結果の不幸でした。こうして沙飛の撮った写真は、撮影者を明示されないまま、使用されてきました。
1986年、沙飛の精神病が36年目にはじめて立証され、名誉が回復されました。そして2007年には、津沢勝医師の功績に対して中国での顕彰が実現しました。15年にわたる日中戦争が、日本と中国の多くの国民に、取り返しのつかない大きな大きな不幸をもたらした、その例の一つが、この写真展の背景にあったのです。
今回の写真展で、沙飛という報道写真家のことを初めて知りましたが、それと同時に、聶将軍によって日本人幼女が救われたこと、解放後、ベチューン医師同様に八路軍に参加した日本人医師がいたことなど、多くのことを学びました。また、多くの悲劇と困難を乗り越えて、関係者によって日中友好の努力が続けられていることに、敬意の気持ちを強く持ちました。
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大変感動的な話ですね。津沢勝医師のように高い志を持った方が不幸な最期を遂げる!なんて惨い話でしょうか。
今アフガニスタンではNPO活動家の斉藤某氏?が非業の死を遂げ
中村医師?が医師の枠をも超えた農業支援で現地人の尊敬を集めている。人それぞれに運命を背負いながら生きているのですね。
国際貢献が大きな話題になっている昨今ですが、私のような凡人も誠実に生きることの大切さを改めて感じた次第です。
投稿: | 2009年11月 7日 (土) 21時59分