菅原道真著『菅家後集・叙意一百韻』を読む
加藤周一は、菅原道真の漢詩を日本文学史上の画期だとする二つ目の理由を、政治に翻弄された自己の運命を、あるいは怒り、あるいは嘆く詩に求めています。こうした詩は、中国の古典に多く(例えば杜甫)、日本のそれにはほとんどなかったとして、「その意味で大陸の詩的世界に近づいたわが国最初の詩人は、おそらく道真である」と評しています。『菅家後集』から「叙意一百韻」ほかをよみます。
「叙意一百韻」は、左遷の命を受けてから大宰府へいく道中の危険や屈辱、到着後の宿舎の荒廃や生活の不自由、大宰府役人の腐敗、中国の故事や老荘への思い、自然景観の描写、自らの生涯への追憶など、道真の怒りと無念と悲嘆とがうたわれた、二百句(行)からなる五言古詩です。主な句を、サイト『菅家後集』「叙意一百韻」から引用します。
貶降軽自芥 貶降ヘンカウせらるること芥アクタよりも軽し
駈放急如弦 駈放クハウせらるること弦より急なり
塵芥よりも軽々しくぽいと捨てられ
追い立てられるように、弦を放たれた矢よりも早く、京を放逐された。
牛涔皆坎穽 牛涔ギウシンは皆坎穽カンセイ
鳥路惣鷹鸇 鳥路は惣て鷹鸇ヨウセン
牛のひずめの跡さえも、私を陥れる穴であったり、
小鳥の飛び行く道に、鷹や隼が待ち伏せている
伝送蹄傷馬 伝には送る 蹄の傷める馬
江迎尾損船 江には迎ふ 尾の損ぜる船
太政官から布告があり、駅ウマヤで蹄の傷んだ馬しか与えられず、
渡し場では半壊の舟しか、用意されていなかった。
移徒空官舎 移り徒ウツる空官舎
修営朽采橡 修め営む朽采橡キュウサイテイ
長く空家になっていた官舎に移り住むことになり、
腐った垂木を修理するなどして、住めるようにした。
京から追放された道真は、大宰府への道中、奸策から絶えず、生命の危険を感じ、また、負傷した馬、壊れた舟、そして朽ちた住いしか与えられず、徹底した嫌がらせを受け、道真は無念の思いを噛み締めます。
殺傷軽下手 殺傷軽く手を下し
群盗穏差肩 群盗穏やかに肩を差す
人を斬る位は屁とも思わず、盗人の大胆不敵さと来たら、馴れ馴れしく肩
を組まんばかりに近寄ってきては盗んでいく。
貪婪興販米 貪婪タンラン販米を興し
行濫貢官綿 行濫コウラン官綿を貢す
役人は如何といえば、米の仲買はする、
官綿を盗んで租税に充てるなど、私腹を肥やすに汲々としている。
左遷先の大宰府では、殺傷や群盗など犯罪が多く、役人たちの汚職がはびこっていました。
詞拑触忌諱 詞は忌諱キキに触るるに拑ツグみ
筆禿述麁癲 筆は麁癲ソテンを述ぶるに禿トクす
いまの境遇では詞を作ればその筋からお咎めが掛かるかと思えば滅多
に作れず、さりとて胸中の物狂ほしさを晴らす術もない時は書かずには
居れぬ気になって、やたら書きなぐるので、筆先はちびれてしまつてい
る。
思将臨紙写 思いは将に紙に臨んで写さんとし
詠取著燈燃 詠は取って燈を著けて燃す
胸中の思いは一度は紙に書き付けては見るものの、やがて燈火に燃や
してしまうので、後に残るものもない。
言論封殺。左遷先では詞を作ることさえ禁じられ、詩人としての道真は事実上、抹殺されました。
覆巣憎殻卵 巣を覆しては殻卵を憎み
捜穴叱蚳蝝 穴を捜しては蚳蝝チテンを叱っす
法酷金科結 法は酷にして金科に結ばれ
功休石柱鐫 功は休して石柱に鐫ホらる
悔忠成甲冑 忠を甲冑と成せしを悔い
悲罰痛戈鋋 罰の戈鋋クワセンより痛みを悲しむ
然も藤氏一派は、私を下降するだけでは満足せず、過酷にも一族縁者に
至るまで罰した。今は厳しい法の桎梏に縛られているのみならず、一生
の功績は抹殺せられて、捏造された罪状だけが永久に伝えられるように
なった。忠一途ならば、何の恐るるところがあろうと信念してやった事が、
却って災いを招き、悲しくも今の酷しい刑罰に遭ったのである。
捏造された罪状は、家族・親戚まで累が及び、過去の功績すら抹殺されたことにたいして、道真は激しく、痛恨と悲憤の叫びをあげました。以上が、「叙意一百韻」の概要です。
次に、加藤周一が、菅原道真の抒情詩を画期的だとする三つ目の理由について、やはり道真の漢詩を引用して紹介します。
「偶作」(『菅家後集』)・・・(漢詩和歌快説講座から)
病追衰老到 病は衰老追いて到り
愁趁謫居来 愁いは謫居タッキョを趁オいて来る
此賊逃無処 此の賊逃がるる処トコロ無し
観音念一廻 観音念ずること一廻イッカイ
病気は 老衰の後からやって来て
憂愁は 左遷先まで追いかけてくる
この賊(死)から逃れる術はない
(生死病死の苦しみをも消すという)観音経を 唱えること一度
加藤氏は、「藤原氏の宮廷陰謀の犠牲となり、家族四散、右大臣から一転して流謫の身となった道真が、老残絶望の極、いわば「深淵から」の叫びとして、観音に訴えたとき、それは彼以前の日本の抒情詩にあらわれた仏教とは全く次元を異にするものであった」として、上述の五言絶句を紹介したあと、次のように指摘しました。「九世紀の初に、空海と共に、仏教の哲学的側面は、日本の思想の一部分となった。九世紀の終わりに、道真と共に、仏教の宗教的側面は、はじめて日本の抒情詩の主題となったのである」。
そして最後に、加藤氏は、「道真の詩が発見した新しい題材は、詩人の生涯そのものであった」として、道真の漢詩を画期的だとする四つ目の理由としました。
「対鏡」(『菅家文草』) ・・・(漢詩和歌快説講座から)
四十四年人 四十四年の人
生涯未老身 生涯は老いたる身ならず
四十四歳の人
人生は年老いた身ではない
此愁何以故 此の愁い何を以っての故か
照得白毛新 照らし得たり白毛新たなることを
この憂愁は 何故か
映ったのは 新たに生じた白い髭
未滅胸中火 滅えず胸中の火
空銜口上銀 空しく銜クワえる口上の銀
意猶如少日 意ココロは猶ナホ少ワカき日の如くなれど
貌已非昔春 貌カホは已に昔の春に非ず
正五位雖貴 正五位は貴しと雖ども
二千石雖珍 二千石は珍しと雖ども
消えていない胸のうちの火は
しかしうつろに含むは 口の上の銀色の髭
気持ちは今でも若かりし日のようだが
顔つきはもはや昔の姿ではない
正五位という位は高貴だが
国司という官職は貴重だが
加藤氏の指摘。「生涯の全体を問うのは、中国の詩人の習慣であって、日本の詩人の風習ではない。・・・彼自身の人生に対する態度において中国流に近づいた。四十四歳の野心的な知識人が、「正五位は貴しと雖も 二千石は珍しと雖も」といったとき、彼は正五位、二千石をあらかじめ相対化し、距離を以って眺めていたはずである。しかし、正五位・二千石を相対化するためには、生涯の全体の意味をあらかじめ意識していなければならない。その意識の明瞭な表現こそは、日本文学史上の画期的な事件にほかならなかった」。(加藤周一著『日本文学史序説上』ちくま新書より)
加藤周一の『日本文学史序説』でのキーワードは、「土着的世界観」という概念です。このことについては、『序説』を読了後あらためて整理し、考えてみたい。ここでは、菅原道真との関係で、書きとめておきます。
7~8世紀の支配層の文学は、土着的世界観(此岸的・非超越的・非論理的・具体的・個別的等)の枠組みにしばられていたが、例外がありました。加藤氏は、「外国文化の「挑戦」に応じて傑作を生んだ少数の知識人の文学は、憶良以来日本文学の歴史を一貫して、一箇の系列をつくることになるだろう。その時代のなかで孤立した傑作の系列」と、極めて重要な指摘をしています。そして、「憶良の後には道真があり、ただ道真のみがあった」と、菅原道真を「孤立した傑作の系列」に位置づけました。そのように意識して、もう一度、道真の漢詩を読んでみたい。
いま私の胸中に、リービ英雄さんの「越境の文学者」という言葉が、思い起こされました。このことも、『序説』を精読しながら、じっくり考えていきたい。
« 菅原道真著『菅家文草・寒早十首』を読む | トップページ | 「木村伊兵衛とアンリ・カルティエ・ブレッソン」写真展 »
コメント
« 菅原道真著『菅家文草・寒早十首』を読む | トップページ | 「木村伊兵衛とアンリ・カルティエ・ブレッソン」写真展 »
菅原道真と言えば大宰府に流された1年後、絶句で以下のような詩を編んでおり当時の心境を見事に吐露しているかと思います。
九月十日
去年の今夜清涼に侍す 秋思の詩編独り断腸
恩賜の御衣今此に在り 捧持して毎日余香を拝す
去年の今頃は都の清涼殿に侍っていたが
今は侘しい秋の思いの中で独り断腸の思いで詩作をしている
御門から餞別に賜った衣を毎日手元に置きその香りを拝している
宮中での生活があまりにも華やかでさぞや毎日が絶望の日々だったのでしょうね。
投稿: | 2009年12月 8日 (火) 19時14分