« 菅原道真著『菅家後集・叙意一百韻』を読む | トップページ | 加藤周一著『日本文学史序説』を一緒に読みませんか? »

2009年12月 5日 (土)

「木村伊兵衛とアンリ・カルティエ・ブレッソン」写真展

Itabeiakita  写真は、とき(時間と時代)を切りとる芸術であることを、しみじみと、感じさせてくれました。たとえば、木村伊兵衛の「板塀、秋田市追分」(1953)は、左に通りすぎる農耕馬を切りとり、50年代前半の秋田を切りとっています。恵比寿の東京都写真美術館で開催中の『木村伊兵衛とアンリ・カルティエ・ブレッソン-東洋と西洋のまなざし』を観て、そのように感じました。

Photo_2  「月島」(1954)。50年代の東京には、ともかく、子どもが多い。私と同年代の男児が、主人公です。頭の刈り込みは、坊主か坊ちゃん。電信柱や自転車も、存在を主張します。左側の少年と少女は、何処へ向かって走っているのでしょうか。ここでも、「とき」が切れ撮られています(「きりとられ」と入力したら最初に、「撮」の漢字がでてきましたので、そのままにしました)。50年前の下町の風景は、懐かしさに、胸が締めつけられます。
 木村が谷崎や荷風を撮り、ブレッソンがサルトルやモーリアックを撮ります。また、前者が大観や玉堂を、後者がマティスやルオーを撮っています。
 秋田の農村の人びとをとらえた木村伊兵衛の眼は、被写体への共感と愛情にあふれ、その場に漂う臭いすら感じさせます。赤ん坊に乳をふくませる若い農婦の姿には、戦後という時代のエネルギーとエロティシズムを、静かに、しかも力強く、感じさせられます。
 アンリ・カルティエ・ブレッソンの「強制収容所から解放時に自分を密告したゲシュタポの内通者をつきとめた女性」は、今回出品の153点のなかでは、際立って異質な作品です。密告者も、女性です。密告者と告発者のふたりの女性の表情を、ブレッソンのカメラが容赦なく捉えています。酷く厳しい「とき」を、あくまでも冷静に、キャッチしているのです。

« 菅原道真著『菅家後集・叙意一百韻』を読む | トップページ | 加藤周一著『日本文学史序説』を一緒に読みませんか? »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「木村伊兵衛とアンリ・カルティエ・ブレッソン」写真展:

« 菅原道真著『菅家後集・叙意一百韻』を読む | トップページ | 加藤周一著『日本文学史序説』を一緒に読みませんか? »