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2009年12月17日 (木)

慶滋保胤著『池亭記』を読む

 加藤周一は、平安時代の文学を論じるなかで、社会批判は、和歌やかな書きの物語には、ほとんどないか極めて少なく、漢詩文においてのみあった、と指摘します。しかしそれは、中国文学の一面のみをならったものであり、「政治社会の「俗」を離れて、隠棲の「雅」に就く・・・・・逃避の前提としてのみ」社会批判に及んだのだとしています。その代表的な作品として、慶滋保胤著『池亭記』(982年)をあげています。
 「日本国の文人の理想の一つは、いつの時代にも、市井または山中に隠れて、悠々自適の生活を送ることであった。社会からの逃避のその独特の形式を、見事に決定したのが、「池亭記」の名文であった」と紹介します。(加藤周一著『日本文学史序説』から)

 慶滋保胤(よししげのやすたね 931?~1002)は、平安時代中期の漢詩人ですが、若い頃から仏教への信仰心が厚く、986年に出家して比叡山横川に住みました。官職にあるときの地位と職種は、「従五位下・大内記」ということなので、詔勅などの起草や天皇の行動記録をとっていた下級貴族ということになります(ウィキペディアから)。時代背景は、摂関政治の最盛期で、藤原氏による専制支配のもと、没落した貴族たちが、世の中を厭うべきものとしていました。
 『池亭記』は、前後2編からなり、前編は、京都について論じ、後編は、貴族社会を批判し、自らの理想の生活を論じています。

 「われ二十余年以来、東西の二京をあまねく見るに、西京は人家漸くに稀らにして、殆ど幽墟に近し。人は去ること有りて来ることなく、屋は壊るること有りて造ること無し。その移徙イシする処無く、賤貧に憚ること無き者是れ居り。或は幽隠亡命を楽しび、当に山に入り田に帰るべき者は去らず。自ら財貨を蓄え、奔営に心有るがごとき者は、一日と雖も住むことを得ず。・・・・・ 
 東ヒガシノ京四条以北、戌亥(北西)・丑寅(東北)の二方は、人々貴賎と無く、多く群集する所なり。高き家は門を並べ堂を連ね,小さき家は壁を隔て軒をつらぬ。東隣に火災あれば、西隣余災を免れず。南宅に盗賊有れば、北宅流矢を避け難し。南阮は貧しく北阮は富めり。富める者は未だ必ずしも徳有らず。貧しき者亦猶し恥有り。又勢家に近づき微身を容るる者は、屋破れたりと雖も葺くことを得ず、垣壊れたりと雖も築くことを得ず。楽しび有れど大きに口を開きて笑うこと能アタはず、哀しび有れど高く声を揚げて啼くこと能はず。・・・・・」

 平安京は、東西4.5km・南北5.2kmの長方形で、その北端中央に大内裏を設け、そこから市街の中心に朱雀大路を通し、その左右に左京・右京を配しています。「西京」「東京」はそれぞれ、右京・左京のこと。都の西側、右京の地には人家も少なく、荒廃している模様が語られます。一方、都の東側、左京の地は、人も多く集まり栄えていますが、貧富の差が大きく、貧しい人々は、粗末な家で、喜怒哀楽を抑えつつ生活していることを、記します。

 「隆タカきに就きては小山をつくり、窪に遇いては小池を穿つ。池の西に小堂をすえて弥陀をおき、池の東に小閣を開きて書籍を納め、池の北に低屋を起てて妻子を著く。・・・・・・緑松の島、白沙の汀、紅鯉白鷺、小橋小船。平生好む所、ことごとくに其の中に在り。況むや春は東岸の柳有り、細煙嫋タヨヤかたり。夏は北戸の竹有り、清風爽然たり。秋は西窓の月有りて、書を披ヒラくべし。冬は南簷エン(ひさし)の日有りて、背を炙アブるべし。・・・・・」

 庭に池をほり、西に小堂を建てて阿弥陀を安置し、東に小閣を建てて書籍を納め、北に低屋を建てて妻子を住まわせる。

 「家主職は柱下(内記)に在りと雖も、心は山中に住まふが如し。官爵は運命に任す、天の工均し。寿夭は乾坤に付く、丘が祷り久し。人の風鵬たるを願はず、人の霧豹たるを願はず。膝を屈め腰を折りて、媚を王侯将相に求むることを願はず・・・。朝に在りては身暫く王事に随い、家に在りては心永く仏陀に帰る(ために)・・・西堂に参り、弥陀を念じ、法華を読む。飯飡サンして後に、東閣に入り、書巻を開き、古賢に逢ふ。・・・予賢主(漢の文皇帝)に遇い、賢師(唐の白楽天)に遇い、賢友(晋の七賢)に遇う。」

 出世するために膝を曲げ腰を折って、上司に媚を売るようなことはしたくない。・・・朝廷では役人として勤め、家へ帰ると西堂へ行って弥陀を念じ、東閣で読書をして賢人たちに出会う。

 「近代人の世の事、一つも恋ふべきこと無し。人の師たる者は、貴きを先にし富めるを先にし、文を以ちて次ツイデとせず、師無きに如かず。人の友たる者は、勢を以ちてし利を以ちてし、淡を以ちて交はらず、友無きに如かず。予門を閉ざし戸閉じ、独り吟じ独り詠ず。・・・・・我吾が家を愛し、其の他を知らず。
 応和以来、世人好みて豊屋峻宇を起て、殆ホトホトに節に山ゑり梲ウダチに藻エガくに至る。其の費巨千万にならむとするに、其の住まふこと僅かに二三年なり。・・・・・」

 最近は、人恋しいことはひとつもない。先生は偉い人や金持ちばかりを優先的とし、友人たちは、力と利ばかりを追いかけ、心で交わることをしない。
 また、人は巨費を投じて立派な屋敷を建てている。わずか二三年しか住まないのに。
 (訓み下し文は、角川ソフィア文庫『方丈記』参考資料からの引用)

 この『池亭記』は後に、鴨長明の『方丈記』に強い影響を与え、その伝統はさらに、松尾芭蕉へとつながっていきます。加藤周一は『序論』で次のように記しています。「しかし、「池亭記」は、逃避の前提に、貴族社会の批判を書き、『方丈記』は、崩れゆく貴族社会の叙述にとどまり、『芭蕉庵記』および徳川時代の俳句は、当該社会の現実には触れるところがない。日本文学史上の逆説の一つがここにある。中国文学の影響のもとに、視野を拡大した日本文学は、その拡大された視野の上に創り出された形式を継承しながら、次第に視野の縮小へ向かったのである。「池亭記」から『芭蕉庵記』への道は、社会的関心が狭くなり、閑居の「風流」が強調されていく過程にほかならない」。

 定年後の読書の柱の一つとして、加藤周一著『日本文学史序説』を徐々に読み続けているのですが、加藤氏は、ものの見事に、読者である私を突き放し、日本の文学史上に脈々と引き継がれている「逃避を前提とした社会批判」の伝統を抉り出しました。私も、「東閣に入り、書巻を開き、古賢に逢ふ」ことを、定年後の生活スタイルとして思い描き、自分にとって良きこととして甘受してきたのですが、私にとっての「賢人」の一人加藤周一氏から、「逃避」を指弾されたような気持ちになりました。

 

 

 

 

 

 

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