『うつほ物語』が『源氏物語』と『今昔物語』を準備した
『うつほ物語』(952-965頃)は、遣唐使清原俊蔭が、波斯国の天女から授かった琴と技法を、四代に渡って伝授していく伝記風の物語と、絶世の美女への求婚譚や皇位継承をめぐる藤原氏・源氏両家の対立を描いた世俗物語からなる、わが国最初の長編小説です。
私はこの小説を、細部の表現の美しさや平安時代についての新鮮な知識に刺激されながら、波乱万丈の展開に心躍らせ、読みつづけました(宮城秀之編『うつほ物語』角川ソフィア文庫・主な巻の抜粋現代語訳)。加藤周一は、日本文学史上、『源氏物語』と『今昔物語』の源にあった大きな記念碑のひとつとして、この『うつほ物語』を位置づけています。
まず、私の感想を、いくつかメモしておきます。
物語の冒頭、主人公の一人、清原俊蔭の幼児期についての記述に、はっとしました。
「父母、「いとあやしき子なり。生ひ出でむやうを見む」とて、文も読ませず、言ひ教ふることもなくて生ほし立つるに、歳にも合はず、丈高く、心かしこし」。不思議なほど賢い子なので、何も教えずに、成長を見守った、というのです。平安時代に、このような教育論があったことに、驚きます。溢れるばかりの知識を強制している今日、「生ひ出でむやうを見む」(どんなふうに成長してみるか見てみよう)という姿勢は、大変新鮮にみえます。
清原家は、漢文の解釈などをする文章の家で、俊蔭も詩歌や学問に優れていました。俊蔭の孫藤原仲忠が、朱雀帝に俊蔭の詩集を講書する場面があります。俊蔭が、秘琴を求めて西方へと旅していたときに詠んだものです。
「「手づから点し、読み聞かせよ」と(帝)のたまえば、古文、文机の上にて読む。例の花の宴などの講師の声よりは、少しみそかに読ませ給ふ。七、八枚の書なり。果てに、一度は訓、一度は音に読ませ給ひて、おもしろしと聞こし召すをば誦ぜさせ給ふ」。訓点をほどこして読んだあと、さらに、訓(和語)で読みかつ音(漢音)で読み、そして最後に、気に入った詩歌を吟詠させた、というのです。こうして、日が暮れて夜になっても読み続け、四日たっても読み終えることができなかった、と記されています。俊蔭の詩は、勿論、漢詩です。平安時代、漢詩はこのように読まれていたのだろう、と想像されます。
秘琴演奏は、『うつほ物語』のもっとも華やかな場面です。俊蔭が帰朝後、帝の前で弾いたときには、御殿の屋根瓦が砕けて花のように散り、仲忠が左大将源正頼の要請により弾いたときには、同年代の若者たちが舞い、琵琶や大和琴で合奏し、こぞって声を出して歌うという、それはそれは賑やかな宴席となります。小説のラストシーンでは、四代目となる仲忠の娘いぬ姫が琴の秘伝を修得し、嵯峨院と朱雀院を招いて琴の演奏を披露し、深い感動を与えます。秘琴伝授の物語には、平安王朝における芸術至上主義を、垣間見ることができます。日本の小説のなかで、音楽がこんなにも重要な役割を果たしているのを、今までに読んだ経験がありません。
さて、加藤周一著『日本文学史序説』での『うつほ物語』の叙述を、整理してノートに記します。
加藤周一は、絶世の美女、あて宮求婚譚では、求婚者十六人のうち、もっとも叙述が鮮やかな三人(三奇人のうちの二人と他の一人)に注目します。
その一人、三春高基。三奇人のひとりで、吝嗇(けち)の人として登場しますが、地方官として聡明で有能、勤倹によって貯えた男です。他人から「清らかなる殿」の新築をすすめられたときの答えを、加藤は引用してコメントします(この項、上記角川文庫にはなし)。
「この大将ぬしの大きなる所に、よき屋を造り建てて、天の下、好色スキ物どもを集めて、物をのみ尽すは、なにの清らなることか見ゆる。その物を貯えて、市し、商はばこそ賢こからめ。我かかる住居すれども、民のために苦しみあらじ。清らする人こそ、公の御ために、妨げをいたし、人のために苦しみをいたせ」。加藤氏はここに、税金の浪費に対する批判と蓄財を投資に結びつける考え方を見い出し、「人間の経済活動について、これだけの考えを述べることのできる人物は、十七世紀末西鶴の町人小説のあらわれるまで、日本の小説には二度と登場しなかった」と指摘します。しかし、貯えた財力であて宮を妻に迎えようとしていた三春高基が、あて宮の入内ジュダイ(皇太子に嫁いだこと)を知り、「七条の家・四条の家をはじめて、片端より火をつけて、片時に焼き滅ぼして、山に籠」ってしまいました。
二人目は、紀伊の豪族、種松。源涼スズシの祖父種松は、涼のために広大な屋敷を造って、都の貴族にも劣らぬ生活をさせます。その財源は、農業、酒造り、大工仕事、冶金、鍛冶、紡績と染織などの事業によるものでした。加藤氏の指摘。「この小説の作者は、都の外で何がおこっているかということ、律令制の中央集権が、経済的な面で、いかに崩れつつあったかということにも、十分に注意を払っていたらしい。そういうことが、宮廷の女房たち、いわゆる女流物語作者に到底ありえなかったことは、いうまでもないだろう」。
そして三人目、上野カンズケの宮。この男も三奇人の一人として登場します。上野宮はあて宮を得るために、僧侶に相談します。この僧侶が言います。「百万の神、七万三千の仏に、御みあかし、御幣帛テグラ奉り給はば、仏神おのおの与力し給はん」。加藤氏は、神仏同列に扱われていること、しかも神仏があて宮掠奪のため道具にすぎないことに注目し、作者が、仏教の彼岸性とともに、「土着世界観のなかで溶け合った神仏の此岸性」を意識していたと指摘します。なお上野宮は、ある寺の御堂の落成供養の場で、あて宮掠奪に成功しますが、あて宮側の策により、偽あて宮である樵夫キコリの娘をつかまされます。
あて宮求婚譚につづいて、次の皇太子を誰にするか、という宮廷内部の権力闘争へと物語は展開します。藤原氏と源氏の間での争いです。朱雀帝の后宮が、藤原氏から次の皇太子をたてようとたくらみ、一族の重臣たち味方に引き入れようとします。しかし男たちは、左大臣(源氏)の権力とその娘たちとの関係(婿)を理由に、態度を曖昧にします。ただ、朱雀帝のみが、「婚姻関係の他に関係人物の政治家としての能力を考え、立太子事件を、その結果生ずる政治的影響という観点から眺め」ていました。
以上が、加藤氏が、『うつぼ物語』のなかで、特に注目した点です。そして、物語の底流に流れる対照的な二面性について、次のように分析します。
第一、形式上の新旧の対照。「新」は、長編小説という文学形式、「旧」は、求婚譚と和歌の多用。
第二、舞台である宮廷貴族社会の、外部に対して開いた面と閉じた面。「開」は、種松邸の描写(地方の経済活動への視野の拡大)、「閉」は、支配層内部の婚姻・懐妊・出産の話。
第三、思想面での叙述の現実主義的な面と理想主義的な面。「現実主義」は、貴族の日常生活・三春高基の性格と思想・上野宮の行動・種松邸の光景・朱雀帝による政治的人間像、「理想主義的」は、仏教的語彙を駆使して描く琴の奇跡・儒教的価値に従い極端に誇張された仲忠の母親孝行・才色兼備のあて宮の賛美。
この『うつほ物語』の二面性は、一方で『源氏物語』(長編小説の形式、閉鎖的な宮廷社会という舞台、一種の理想主義-音楽の芸術至上主義と人物の美的理想化)を準備し、他方で、『今昔物語』(外来の観念体系の影響からの自由、容赦なく鋭い現実生活の観察)において徹底される、と展望します。最後に、少し長い引用となりますが、『うつほ物語』に関する加藤周一の結論をメモします。
一方には、「日本化」された外来思想の枠組を用いながら、土着の感受性を、極端に閉鎖的な環境のなかで洗練した文学があり、他方には、土着の世界観を背景とし、実生活上の智慧を、同時代の大衆とのつながりを通して徹底させた文学がある。平安時代が『源氏物語』と『今昔物語』の時代であったとすれば、室町時代は能と狂言の時代となるだろう。その源にあった大きな記念碑の一つが、『うつほ物語』であり、その二面性こそまさに、時代の文化の社会的(貴族知識人と大衆)また思想的(外来思想と土着世界観)な二面性の内化にほかならない。
さていよいよ、『源氏物語』の章へと進んできました。これは、新年からのテーマとなります。
うつほ物語…すべてを知り尽くしているわけではありませんが、人の生活するところに音楽は存在するということ、なるほどなぁと感じました。そしてその音楽が、物語に重要な役割をしていることはわかりますが、物語に対して「どのような影響を与えた」のでしょうか。感じるところがありましたらメールアドレスにお知らせいただけませんでしょうか?
投稿: ごえごえ | 2010年8月27日 (金) 07時12分