加藤周一と読む『源氏物語』-その1-
昨秋からはじめた加藤周一著『日本文学史序説』の読書は、「源氏物語」の項に指しかかりました。年末、日本最初の長編小説「うつほ物語」(角川ソフィア文庫本)を読んだ後、次にこの大長編小説を読もうかどうかと散々悩んだ末に、瀬戸内寂聴訳『源氏物語 巻一』を手に取り、やっと先週初めから、読みはじめました。光源氏の好色ぶりと自己愛の強さにうんざりしながら、これを10巻も読むのかと思うと、放り出したい思いでしたが、何とか昨日までに、源氏の半生-「桐壺」から「藤裏葉」までの五巻-を描いた第一部を読み終えました。
加藤周一氏は、『序説』の「第三章「源氏物語」と「今昔物語」の時代」の冒頭で、平安時代中・後期の三〇〇年間(10~12世紀)を「最初の鎖国時代」と呼び、その長さと社会的・文化的体系の自己完結性において、江戸期の「第二の鎖国時代」に匹敵する、と指摘します。この間、この島国日本で何が起こったか。「第一に、貴族支配層が外来の文化と土着の習慣とを融合させながら、内的斉合性の著しい自己完結的な一箇の文化体系(平安朝文化、王朝文化などの名でよばれる)をつくりだし」、「第二に、本来大陸から輸入された要素、殊に仏教が、広汎な大衆の層へ浸透するようになり、その結果大衆の世界観が変わった以上に、仏教そのものが変わった」と、平安期の日本文化を特徴づけました。そして、このことを典型的に表しているのが、『源氏物語』というわけです。
加藤氏の所論に入る前に、私自身の『源氏物語』第一部を読んでの感想を、いくつか記しておきます。
その一、『源氏物語』は徹頭徹尾、宮廷貴族社会の物語であり、それ以外の外の世界、つまり民衆は登場しないばかりか話題にすらされません。ただ、田舎の下々の者の暮らしぶりを見ている源氏の君が、それをもって流罪の身を嘆くだけです。また、海人の塩焼く煙は、和歌の素材とはなっても、海人の生活や労働を想像することにはなりません(須磨)。
その二、光源氏をはじめ宮廷貴族たちの好色物語が、彩りも華やかに、全編において展開されますが、性行為の描写は、赤裸々なものも隠微なものも、一切ありません。第一部のなかでの唯一例外は、源氏の君が玉鬘タマカズラの髪をなでる場面があるぐらいです。
その三、宮廷貴族社会の日常生活、特に貴族たちの着衣する衣装や道具、そして部屋の調度品の様子は、くり返し具体的に描写されますが、食べ物についての言及は、極めて少ない印象を受けました。漁師から献納された魚の話題が、一度出てきた記憶がありますが。宴は、ご馳走を楽しむよりも筝・琴・琵琶・笛による合奏を楽しむ場となります。摂食-消化-排泄という人間の生理現象は、捨象され抽象化されているといえそうです。
その四、原文は、「漢字かな混じり文」で書かれていますが、漢字に対する嫌味を表明する一方で、仮名への過度の評価をしています。たとえば、「仮名で書くのが常識の女どうしの手紙に、半分以上も固苦しい漢字を書き込んであったりするのは、何とも見苦しい」とか「「漢字が多いと読む声もついごつごつした響きに聞こえ、耳障りで、不自然に感じます」(帚木)と漢字を腐しています。他方、源氏の君が昔の能筆家の筆跡と現代の仮名を比較しながら、昔の書が、のびのびとした自由な精神がなく個性的でないのに比べ、近年の書は、巧妙でうまみがあると、仮名の書をべた褒めします(梅枝)。表意文字としての漢字と表音文字としての仮名を混ぜ合わせた日本語表記は、実用的・機能的であるとともに美的にも優れていることを、確認しているのです。私たちが現代も使い続けている「漢字かな混じり文」草創期の文学者による、「今後、日本語表記はこれでいこう」という宣言なのかもしれません。
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