加藤周一と読む『源氏物語』-その2-
加藤周一は、先行する『うつほ物語』などから『源氏物語』への発展の方向を、三点指摘しています。①日常生活中心主義、②感覚的な洗練、③内省的心理主義。『源氏物語』は、貴族社会の日常生活の描写を主としており、超自然的な音楽の奇蹟を重要な要素とした『うつほ物語』とは違う。また、美的・感情的な面で理想化を徹底させ、魅力尽きない恋人を描いた。そして特徴ある「独特の文体」で、人物の心理を、巧妙に描き出した、と加藤周一氏は指摘します。
『序論』では、内省的な心理描写をしている事例として、源氏の君と藤壺の宮との逢瀬の場面が、引用されています。藤壺の宮は、実父である桐壺帝の妻(女御)、つまり光源氏の義母にあたる人物で、源氏の亡き母親を偲ばせ、その面影は終始、『源氏物語』の底流に流れつづけます。ただ、ことは重大です。義母との関係であると同時に、天皇の妻との姦通事件なのです。この逢瀬の結果、藤壺の宮は妊娠します。帝の子供として生まれた赤子は、後の冷泉帝となります。
この逢瀬の場面を、原文、現代語訳(ネットで検索)および瀬戸内寂聴訳を、それぞれ引用します。原文は、古語辞典を引きながら訳してみましたが、私の能力では、ほとんど解読不可でした。
いかが、たばかりけん、いとわりなくてみたてまつる程さへ、うつつとは思えぬぞ、わびしきや。宮も「あさましかりし」を、思し出づるだに、世と共の御物思ひなるを、「さてだにやみなん」と、深うおぼしたるに、いと心憂くて、いみじき御気色なるものから、なつかしうらうたげに、さりとて、うちとけず、心ふかう恥づかしげなる御もてなしなどの、なほ人に似せ給はぬを、「などか、なのめなることは、うち交り給はざりけん」と、つらうさえぞ、おぼさるる。何事をかは、きこえつくし給はん(「若紫」原文)。
どのように手引したのだろうか、とても無理してお逢い申している間さえ、現実とは思われないのは、辛いことであるよ。宮も、思いもしなかった出来事をお思い出しになるだけでも、生涯忘れることのできないお悩みの種なので、せめてそれきりで終わりにしたいと深く決心されていたのに、とても情けなくて、ひどく辛そうなご様子でありながらも、優しくいじらしくて、そうかといって馴れ馴れしくなく、奥ゆかしく気品のある御物腰などが、やはり普通の女人とは違っていらっしゃるのを、「どうして、わずかの欠点すら少しも混じっていらっしゃらなかったのだろう」と、辛くまでお思いになられる。どのようなことをお話し申し上げきれようか。(源氏物語の世界 再編集版より)
そのうち、王命婦がどんな無理算段をしたものか、まわりの人の目をかすめ、ようやく宮の御帳台までお引き入れしたのでした。
源氏の君は夢の中まで恋いこがれていたお方を目の前に、近々と身を寄せながらも、これが現実のこととも思われず、無理な短い逢瀬がひたすら切なく、悲しいばかりです。
藤壺の宮も、あの悪夢のようであったはじめての逢瀬を思い出しになるだけでも、一時も忘れられない御悩みにさいなまれていらっしゃいますので、せめて、ふたたびあやまちを繰り返すまいと、深くお心に決めていらっしゃいました。
それなのに、またこのようなはめに陥ったことがたまらなく情けなくて、耐えがたいほどやるせなさそうにしていらっしゃるのでした。
それでいて源氏の君に対しての御風情はいいようもなくやさしく情のこもった愛らしさをお示しになります。そうかといって、あまり馴れ馴れしく打ち解けた様子もお見せにならず、どこまでも奥ゆかしく、こちらが気恥ずかしくなるような優雅な御物腰などが、やはり他の女君と比べようもなく優れていらっしゃいます。
「どうしてたこのお方は少しの欠点さえ交じっていらっしゃらないのだろう」と、源氏の君は、かえって恨めしくさえお思いになられるのでした。
心に積もるせつない思いの数々の、どれほどがお話出来ましょうか。(瀬戸内寂聴訳)
加藤氏の分析を、私なりに整理して、記しておきます。内省的な心理が、どのように描写されたのかが、課題です。
①「いかが、たばかりけん」の主語は、藤壺の侍女で、内容は語り手の感想。
②「うつつとは思えぬ」の主語は源氏、「わびしきや」の文法的主語は、「いとわりなくて・・・・・思えぬぞ」。源氏の感想と語り手の感想が、融合している。
③「宮も・・・・・なほ人に似せ給はぬ」の主語は、藤壺の宮で、内容は語り手の感想。
④「「などか、なのめなることは、うち交り給はざりけん」と、つらうさえぞ、おぼさるる」の主語は源氏。
⑤「何事をかは、きこえつくし給はん」の主語は源氏で、内容は語り手の感想。
文章の途中で主語を変えたり省略したり、また、主人公と語り手の感想とが極限までに接近または融合して、「ほとんど仲間うちの噂話に似た一種の親密感をつくりだ」しており、こうした独特の文体でもって、藤壺と源氏の微妙な心理的交渉を描いている、と指摘しています。加藤氏は、こうした文体は後世、『源氏物語』解読を困難にしたけれど、同時代の読者にとっては、そうではなかったと断言します。
「紫式部は、彼女と同じ世界に生きていて、おそらく面識さえもあったろう少数の貴族と女房のために、書いたのである。彼らは小説の舞台のあらゆる細部を熟知し、人物の「モデル」さえも心得ていた・・・・・。『源氏物語』の文体は、作者・読者・登場人物が、極度に閉鎖的な小社会に完全に組み込まれていた条件のもとにおいてのみ、成立し、日本語による表現の可能性の一つを-しかし決してその全部ではない-、おそらく極限まで追求したものである」と、この項を括っています。
加藤周一著『日本文学史序説』を読みながら、そこで取りあげられた主な古典を読んでいるのですが、私にとって古典原文は、ほぼ解読不可のため、すべて現代語訳あるいは今回の瀬戸内訳のような翻案作品に近いものを読み続けています。菅原道真の漢詩を読んだ時もそうでしたが、今回の『源氏物語』を読みながら強く感じたのは、原文に対して現代語訳は、どうしても長文化する。翻案作品にいたっては、原作の何倍もの行数にならざるを得ない、ということです。今回で云えば、原文と瀬戸内訳を比較すると、行数にして2.5倍ほどの差があります。1000年の時間の差を感じざるを得ません。
さて、私の『源氏物語』読書は、まだ五合目に差し掛かったところです。第二部は、巻数にして五巻、講談社文庫で5冊です。ここまでくれば、頂上を目指して、読み通したいと思います。
« 加藤周一と読む『源氏物語』-その1- | トップページ | 竹林整備と里山再生 »
コメント