広井良典著『コミュニティを問いなおす』
09年の大仏次郎論壇賞を受賞した広井良典著『コミュニティを問いなおす』(ちくま新書 09.8刊)は、日本社会の未来を地域コミュニティの回復にもとめた、極めて意欲的かつ野心的な作品であり、読者にとってはすこぶる刺激的かつ興味深い本でした。社会福祉政策や都市政策において意欲的であり、文明論や哲学において野心的な挑戦を試みています。
本書に一貫する日本社会についての現状認識。著者はいいます。
「戦後の日本社会は農村から都市へと大移動を行いつつ、都市の中に「カイシャ」と「(核)家族」というムラ社会を作り、それらが経済成長という「パイの拡大」に向かって互いに競争する中で・・・豊かさを実現してきた。」
「しかし人々の需要が飽和し、経済が成熟して従来のようなパイの拡大という状況がなくなったいま・・・カイシャや家族のあり方が大きく流動化・多様化する(中で)・・・個人の孤立を招き、「生きづらい」社会や関係性を生み出」している。
では、この生きづらい日本社会を、どのように変えていくのか。著者は、コミュニティの再生に、しかし、従来の「農村型コミュニティ」ではなく「都市型コミュニティ」に未来を託します。都市型コミュニティでは、人々は独立した個人としてつながり、個人をベースとした公共意識を共有しあっています。また、農村型コミュニティが、情緒的(&非言語的)であったのに対し、都市型コミニニティは規範的(&言語的)であり、前者の人と人の関係性が、集団内部における同質的な結びつきであるのに対して、後者は、異なる集団間の異質な人の結びつきにある、としています。このことは、日本社会の未来にとっての中心的課題になるだろう、と著者は指摘します。
著者は、日本の街とヨーロッパの街の根本的な違いに、注目します。人と人との関係性では、ヨーロッパの街では、見知らぬ者どうしが声をかけあい道をゆずりあうなどのコミュニケーションがあるのに対して、日本の街では、見知らぬ者どうしの関係は希薄で、ただ「お金」を介した(店員と客との)やりとりだけがコミュニケーションとなっている。また、街並みや景観は、彼方では、建物の形状、高さ、色などが、周囲との調和や景観上のまとまりなどを配慮して造られているのに対して、此方では、そうした配慮はなく、個々の建物が孤立して存在している。これらソフトとハードの両面から見える街の光景は、現在の日本社会における人と人との「社会的孤立」という現象と連動している、と洞察します。こうして情況は著者をして、都市計画のあり方、都市政策へと向かわせます。
高齢化社会におけるコミュニティの役割は、福祉政策やケアの課題と不可分につながっています。「ケアの最終目標がその当事者が地域や社会の中で自立していくことにあるとすれば、コミュニティという視点を抜きには考えることはできないし、またそもそも人間の心身の状況というものは、その人のコミュニティとの関わりと深い関係にある」のです。このことを著者は、「福祉を場所・土地に返す」と表現します。今後の福祉政策とケアを展望していけば、おのずからコミュニティに向かわざるを得ません。
こうした街づくり、ケア、(環境)等の「地域」に関わる政策課題の担い手として、著者は、自治会・町内会などの伝統的な地域コミュニティとNPOなどのミッション型コミュニティとの連携・融合を提起します。そして、上述した「独立した個人としてつながり、個人をベースとした公共意識を共有しあう」都市型コミュニティへの進化を展望しています。
定年後の私は、地方都市近郊の小さな山里に居を構え、そこを終の棲家として暮らしています。これから死ぬまでの何年かを、ここで生活しつづけることになります。この山里の暮らしや様子は、折にふれ、このブログで触れてきました。ひろがる耕作放棄地、放置された竹林、コミュニケーションの後退、既存組織の陳腐化、孤立する高齢者、貧困化等々、日本の農村社会の抱える諸問題が、目の前に広がっています。しかしここでは、皆が挨拶を交わし(皆のなかに外来者含む)、里山の景観は美しく、近所からいただく野菜や果物は新鮮で美味しく、新しくできた即売所は活気があり、新茶の会や芋煮会などの提案が、長老の後押しで実現し、そして「何とかしなければ」との思いを、多数派ではないが少なくない人々が、共有しています。この地で、著者のいう「独立した個人」としてつながっていくことの意味を、考えます。荒廃した竹林を整備しょう、ホタルを飛ばそう、耕作放棄地を何とかしょう、といったミッションをもったグループが徐々に、芽ばえつつあります。半身の構えからもう一歩前に進み出て、コミュニティの構成メンバーの一員として、暮らしつづけたいと思います。そんな折に読んだ広井氏のこの本に、勇気づけられました。
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